リビングは静まり返っていた。
薄闇に沈む部屋の中
唯一の光源は
棚の上に置かれた小さな読書灯──
乳白色の硝子越しに、仄かな橙が滲み
空間にぼんやりと揺らぎを与えている。
その光が照らし出していたのは
部屋の中央に立ち尽くす、一人の女。
──アリア。
腰まで流れる黄金の髪は
まるで彫刻のように整い、微動だにしない。
深紅の双眸は灯の向こうを見つめながら
しかし何も映してはいなかった。
その姿は
まるでこの空間にだけ取り残された
幻影のようで──
それでも、その場に確かに存在していた。
聞こえてくる。
灯りの漏れる奥の扉の向こう
バスルームから、湯の跳ねる音と──
男たちの、笑い声。
低く、くぐもった笑い声が
扉を通して微かに響くたびに
アリアの睫毛が
まるで風に揺れる草のように僅かに震えた。
感情など、とうに捨てたはずだった。
けれどその声は
遥か遠くに置いてきた何かを──呼び覚ます。
そして──
静寂の中、ぽつりと、言葉が落ちた。
「⋯⋯⋯烏め」
囁くような声音。
だがその一語は、冷たく
研ぎ澄まされた刃の如く空気を切り裂いた。
低く、濁ったその声は
呪のように夜へと溶け、染み入り
沈んでいく──⋯
深い闇の底へと。
「いかに羽を清めようとも
その黒は⋯⋯赦されぬ業の色」
わずかに顔を傾け、視線を落とす。
まるで
己の胸の奥底に潜む影を見下ろすように。
「天使の温もりに触れようとも⋯⋯
その羽が、白に染まることはない」
淡い灯が照らす横顔は
影と光の境界に浮かび上がり
まるで神像のような静謐と──
どこか異質な冷たさを帯びていた。
「天使の美しさに縋ったとて──
その翼を穢すことは叶わぬ。
お前の生まれは、闇の中だ。
掌をすり抜け、足元を濡らし
背を引き裂いた黒い泥こそ、お前の胎衣」
そこには怒りも憐れみもない。
ただ、冷えきった諦念だけがあった。
「善を纏い、正義を装い⋯⋯
その笑顔で、いくつ命を操った?」
微かに、口元が歪む。
それは、笑みとは呼べない──
感情の残滓すら削ぎ落とされた
ただの曲線。
「だが⋯⋯」
ぽつりと、また言葉が落ちる。
まるで断頭台の上で告げられる赦免のように
それは静かに、ゆっくりと。
ふいに、風が吹き込んだかのように
彼女の睫毛が揺れる。
「今は⋯⋯目を瞑っておこう。
桜がまだ、微笑みを保っているうちは」
その声は
まるで聖歌の終わりに囁かれる祈りのようで
同時に、断罪の鐘のようにも響いた。
「──〝烏〟よ。
その羽の黒を誇るがいい。
いずれ、お前が地に堕ちる時
誰よりも美しく、求めるほど焦がれた光に
お前は焼かれるのだから⋯⋯」
ゆるりと背を向ける。
その一歩には、女王のような威厳と
墓標を踏み越えるような冷酷が宿っていた。
読書灯の光が背を離れ
彼女の姿を暗闇へと沈めていく。
だが、アリアの深紅の双眸は
その中でもなお光を湛えていた。
夜そのものが、彼女を守るように。
夜を統べる者であるかのように。
そして──
まるで彼女こそが⋯⋯
〝赦されぬ闇そのもの〟であるかのように。
やがて、扉の陰にその姿が飲み込まれた時──
また、男たちの笑い声が微かに届いた。
それはあまりに人間らしい
ささやかな幸せの響きだった。
だが、アリアの去った後のその部屋には──
断罪の残響が、音もなく染み付いていた。
まるで、洗えぬ黒羽のように。
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