「一時はどうなることかと思いましたが、香坂さんや笹岡さんのおかげでなんとか今日までこぎつけられて、本当に感謝しかありません」
心底、ほっとした顔で紀田さんは言った。
「いえ、紀田さんこそ、いろいろ気苦労が多かったでしょう。お疲れ様でした。またイベント当日の件はあらためて」
「はい、そうですね。また、ご連絡させていただきます」
8月半ばのある土曜日。
その日は〈シンデレラ・プロジェクト〉の施術の最終日だった。
紀田さんとSHIHOさんを出口まで見送った後、俺は笹岡と一緒に、応接室で待つ桜庭|乃愛《のえ》のところに行った。
「もう、遅いから待ちくたびれちゃった」
カフェから持ってこさせたアイスティーを飲みながら、桜庭乃愛が笹岡に向かって不満げにこぼす。
そんな彼女の態度にも、笹岡は眉ひとつ動かさず、丁重に言葉を返した。
「長期間、弊社の施術にご協力いただきまして、本当にお疲れ様でした。次回は9月にイベント用のドレスを選びにいらしてください。その際、またご連絡を差し上げますので」
桜庭は横目でちらっと笹岡を見て「そう」と一言だけ返した。
岩崎が担当を降りてから、自身の忙しい仕事の合間を縫って、笹岡は彼女の面倒を一手に引き受けていた。
桜庭は相変わらず、いろいろ難癖をつけていたが、笹岡が大人の対応をしてくれていたおかげで、なんとか最終日までこぎつけた。
ようやく終わった。
二人の様子を眺めながら、俺は心のなかでほっと息をついていた。
『〈シンデレラ・プロジェクト〉はわが社にとっての重要な宣伝活動なのだから、間違っても彼女の機嫌を損ねないように』
と笹岡に何度も釘を刺されていたので、俺も表面上は穏やかに接していたが、内心は活火山の下で燃え|滾《たぎ》っているマグマのように、いつ爆発してもおかしくない状態だった。
桜庭乃愛がうちのスタッフたちを下に見て、小バカにする態度も許せなかったが、なにより、こいつが優紀を苦しめたのかと思うと、今すぐ、ここから追い出したいという気持ちがすぐに頭をもたげてきた。
このひと月あまり、そんな自分を|宥《なだ》めるのにひと苦労だった。
「ねえ、ちょっと香坂さんと二人にしてくれない」
高飛車に言う桜庭に、笹岡は一礼して、出口に向かった
俺はその後ろ姿に「あれ、よろしくな」と声をかけた。
彼女は振り返り「わかりました」と言うと、部屋から退出した。
ドアが閉まったとたん、桜庭は笹岡に対するときとは、人が変わったような猫なで声で話しはじめた。
「今日でもう香坂さんにお会いできないなんて、|乃愛《のえ》、ほーんとにつまらない。ねえ、今度、家に遊びに来て。おじい様にも『一度、お前の憧れの香坂くんを連れてきなさい』と言われてるの」
モデルを途中で交代させるという今回の暴挙は、お嬢様のわがままというだけでなく、俺と桜庭をくっつけたいという、彼女の祖父、桜庭茂三郎の意向が働いていたようだった。
桜庭茂三郎はKALENを出版している改進出版の副社長だが、以前、優紀が勤めていた改進ビルディングスの実質的なトップでもあった。
孫である乃愛が、あの会社で大きな顔をしていられるのには、そういう事情があった。
桜庭の祖父は大規模な再開発事業を手掛けたいという野心を持っており、不動産部門のテコ入れのために、香坂ホールディングスとのつながりを求めていた。
だが、父は、桜庭の祖父がどうも汚職に関わっているらしいとの情報を得ており、まったく相手にしていなかった。
業を煮やした桜庭茂三郎は、俺のファンだという孫を使うことを考えたらしい。
うちの孫はあれほど可愛いのだから、好意を示して近づけば、きっと俺が手を出すはずだ、と。
そして、その既成事実を盾に、俺たちを結婚させようと目論んでいたらしい。
もし、そんなことを本気で考えていたのだとしたら、目も当てられない「孫バカ」だ。
浅はかすぎて、一笑に付す値打ちもない。
心のなかでそんなことを考えているのをおくびにも出さず、俺は言った。
今、彼女を嫌っていることを知られるのは、ちょっとまずかった。
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