テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
45
#茜
💎星乃葵@ペア画中.ᐟ💎
1,178
りおりんご🍎
2,407
今中希美
28
「勇斗さん、来なくてもええって、俺、言いましたよね」
エレベーターの鏡に映る上司に向かって、舜太は声を落として言った。
「言われたな」
「今日は、夏に社内の協力者さんに使ってもらった結果を、仁人さんに説明してもらうだけの会です。事業責任者が出るような会議じゃないんですよ」
「現場の数字は、自分の目で見たいんだよ」
勇斗はあっさり言って、ネクタイの結び目に指を当てた。悪びれた様子は少しもない。
「ただでさえ、予定びっしりやのに。勇斗さん、いつ休んではるんですか」
「休んでるよ」
「いつですか」
「……先週、たぶん」
「たぶんって言いましたよね、今」
舜太が眉を上げると、勇斗は声を出して笑った。
「うるせえ。俺の予定の三分の一は、お前の打ち合わせだろ」
「そのうち七割は雑談ですけどね」
「だから息抜きになるんだよ」
「息抜き係、卒業しますわ、俺もまあまあ忙しいんですけど」
この人の手帳は、半分が他人の名前で埋まっている。
会議、面談、根回し、挨拶、報告、謝罪、誰かの相談。
その合間に現場へ足を運び、夜には資料を直している。
休んでいるところを、舜太は見たことがなかった。
倒れないのが不思議で、それだけ働いても、誰にも不機嫌をぶつけないのが、もっと不思議だった。
休めないの勇斗さんの悪いクセですよ、と舜太は言いかけて、やめた。言っても直らないことは、もう分かっている。
この人は、細部まで見たがる。数字も、画面も、現場の空気も、気になれば自分の足で見に行く。
そのくせ、任せたものには、驚くほど口を出さない。
出すのは、事業を左右する数か所だけで、その数か所を、舜太は一度も外されたことがなかった。
部下として鬱陶しいと思った回数は、数えきれない。けれど、助けられた回数のほうが、ずっと多い。
この人が「ここは外せない」と言う場所には、必ず理由がある。舜太は、それを信じていた。
尊敬している、と本人に言ったことはない。言えば、調子に乗るからだ。
「今日は仁人さんの領域ですからね。そこだけは、守ってくださいよ」
「分かってるって」
「ほんまに分かってます?」
「お前なあ」
勇斗は笑いながら、舜太の肩を軽く小突いた。扉が開いた。
システムベンダーのオフィスは、開発チームの島が、広いフロアの真ん中にあった。
ガラス張りの会議ブースの前で、仁人とチームが待っていた。
「お世話になります。お時間をいただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ。今日は、よろしくお願いします」
勇斗が、仁人の目を見て言った。仁人も、勇斗の目を見て、軽く頭を下げた。
互いに、一度も視線を逸らさなかった。逸らさないことに、二人とも力を使っているのが、舜太には分かった。理由は、分からなかった。
ブースの壁際に、ホワイトボードがある。定規で引いたように揃った字で、今日の議題が書かれていた。
柔太朗は、午後の外来で来られない。かわりに、前日の夜に、舜太宛てに「臨床からの意見」というタイトルでメールが届いていた。
「まず、前提だけ」
仁人は、画面にグラフを映した。
「これは、夏に社内の協力者の方々、二十人ほどに二週間使ってもらったログです。今日見るのは、有効性ではありません。使われ方です」
「うん。それでいい」
勇斗が頷く。
「入力した人の数は、初日はほぼ全員でした。それが、三日目あたりから、なだらかに減っていきます。もう一つ、見てほしいのはこちらです」
次のスライド。入力画面を模した図に、色が塗られている。
ヒートマップ的に上は濃く、下へ行くほど、薄くなっていた。
「空欄になるのは、画面の後ろの欄からです。日を追うごとに、下から順に、空いていく」
「十二項目のうち、八つ目あたりから、手が止まる人が多いんですね」
舜太が言うと、仁人は頷いた。
「最初に空くのは、日中の眠気、その日の気分、それから、前の日のカフェインとお酒の欄です」
「日中の眠気は、外せない」
勇斗の声が、先に出た。
「そこは、評価の根っこだ。どうせ——」
言葉が、一度、止まった。
「どうせ、削れって言うんだろ」
「まだ何も言ってません」
仁人の声は、平らだった。ただ、眉が、ほんのわずかに動いた。何かを飲み込んだように見えた。
勇斗は口を閉じ、会議ブースの中が一瞬だけ静まった。
舜太は、二人の間の空気が、速すぎることに気づいていた。相手が言い終わる前に、次の言葉が出てくる。
まるで、何年も同じ会議をしてきたような速さだった。
「ちょっと、いい?」
勇斗が立ち上がって、ホワイトボードのマーカーを取った。仁人の視線が、その手元に動く。
きれいに揃った字の隣に、勇斗の字が、大きく、少し右に傾いて、乗った。
『人数 × 日数 × 項目数』
「治験まで持っていくには、データの量が要る。量は、この掛け算です」
その下に、横線と縦線を一本ずつ引く。横線の右端に、『項目数』。
「項目を増やせば、取れる情報は増える。ただ、使う人は、続かなくなる。三日で止まる人が増える。日数も、人数も、落ちる。掛け算の、二つが削れます」
左上から右下へ、線を一本。続けて、左下から右上へ、もう一本。
二本の線が、ボードの真ん中あたりで、交わった。勇斗は、その点に、丸をつけた。
「探したいのは、ここです。増やしすぎても、減らしすぎても、数字として使えない」
マーカーの先で、丸を、とん、と叩く。
「それと、もう一つ。中身のほうで外せないのが、日中の眠気と、寝つくまでの時間、夜中に起きていた時間、あとは就寝と起床の時刻。ここは、同じ項目を、同じ期間、同じ人から追い続けないと、前と後ろで比べられない。途中から足すことも、減らすこともできないから、最初に決めたい」
「縦軸が、揃っていません」
仁人が、言った。
勇斗の手が、止まる。
「続く人は、割合です。取れる情報は、単位がありません。同じ軸には、載せられない」
「概念図だ」
「概念図でも、です」
仁人は、立ち上がっていた。ボードの下の受け皿から、細いほうのマーカーを取る。
左端の縦線の脇に、『続く人(%)』。
右端に、もう一本、縦線を引いて、『取れる情報(相対)』。
定規で引いたように揃った字だった。勇斗の大きな字と、仁人の小さな字が、一つの図の中に、収まった。
勇斗は、何も言わなかった。丸の位置は、動かさなかった。
舜太は、図が、さっきより分かりやすくなったことに気づいた。それが誰のおかげなのかは、考えないことにした。
勇斗は、ボードから目を離さずに続けた。
「それに、今日はアプリだけの話をしてるつもりはないです。俺は、この先の治験と、薬機と、事業化まで見てる。事業化されなきゃ、どんなにいいアプリでも、誰の手にも届かない。そうなったら、意味がないんです」
仁人の顔が、ほんのわずかに動いた。苦いものを噛んだような、一瞬の表情だった。
舜太には、それが何を意味するのか、分からなかった。
勇斗は、マーカーのキャップを閉めた。
「それ以外は、任せます。画面も、聞き方も、全部。ただ、ここだけは」
「それ以外は任せると言われても」
仁人が、静かに返した。
「肝心なところを押さえられたら、残りは飾りです。質は、続いて初めて質になります。三日で止まったら、質も量もゼロです」
「だから困ってる」
「困っているのは、そちらだけじゃありません」
声は、どちらも荒げていない。ただ、言葉の端が、少しずつ尖っていくのが、舜太には分かった。
「何を取るかと、どう聞くかは、別でしょう」
「どう聞くかで継続率が変わるなら、それも評価に影響する」
仁人は黙った。反論が見つからなかったのではない。
見つかった反論が、全部、自分の側にも刺さるものだったように、舜太には見えた。
「あの」
舜太は、手元のタブレットを持ち上げた。
「柔太朗先生のメール、読んでもいいですか。昨日の夜、届いてました」
二人が、同時に頷いた。同時だったことに、本人たちは気づいていない。
「『診察室で口頭で聞ける情報と、日々の記録でしか残らない情報は、性質が違います。後者を優先し、前者は診察で補う設計にできないでしょうか』。以上です」
「診察で補える、ってのは、先生らしい」
勇斗は、小さく息を吐いた。
「ただ、診察で聞く数字は、思い出して答えた数字なんですよ。その日のうちに書いた数字とは、別物です」
仁人の目が、一瞬だけ、勇斗に向いた。
「……それは、そうですね」
「じゃあ、こうしましょう」
舜太は立ち上がって、ホワイトボードのマーカーを取った。縦と横のマトリクスを引いた。
「項目ごとに、評価にどれだけ必要か、入力にどれだけ重いか、二つの目盛りで並べる表を作ります。必要度は勇斗さん、負担度は仁人さん。突き合わせと整合性をとるのは、俺と先生でやります。データの精度を左右しそうなので、二人で直接やり取りしてもらうのが早いです」
勇斗と仁人が、同じ顔をした。
嫌そうな、というほどではない。ただ、「それは」と言いかけて、飲み込んだ顔だった。
二人とも、まったく同じ角度で、眉が寄っている。
この人たち、同じ顔するんやな、と舜太は思った。口には出さなかった。
「……分かりました」
「了解。後で連絡する」
その言い方が、二人とも、少しだけ固かった。
仁人は、二人を見送って、ブースに戻った。
ホワイトボードには、二本の線が、残っていた。右へ下がる線と、右へ上がる線。交わるところに、丸。
大きく右に傾いた字と、自分の揃った字が、一つの図の中に並んでいた。
仁人は、消す前に、スマートフォンで写真を撮った。仕事の記録だ、と自分に言い聞かせて。
「お疲れさまです」
声をかけてきたのは、開発チームの若手のエンジニアだった。ログの集計を手伝ってくれた人だ。
「勇斗さんって、事業責任者なのに、細かいところまで見るんですね。ちょっと驚きました」
「そうですか」
「でも、話しやすい人ですね。ああいう人、あんまりいないです」
「そうですね」
返事が、短くなった。若手は、気にした様子もなく、ホワイトボードを見上げた。
「仁人さんは、何項目なら続けられると思いますか。自分で使うとして」
「三つです。寝た時刻と、起きた時刻と、寝つくまでの時間」
「それって、使う人の話ですよね」
若手は、不思議そうに首を傾げた。
「仁人さん自身は、どうしたいんですか。どういうものを、作りたいんですか」
仁人は、答えようとして、口を開いた。何も出てこなかった。
「……考えておきます」
若手が去ったあと、仁人は一人で、ブースの椅子に座った。
言うつもりだった。
勇斗が「どうせ削れって言うんだろ」と言う前から、仁人は、削れ、と言うつもりだった。
三項目まで。それ以外は任意に。ログも、そう言っていた。
ただ、言う前に先回りされた。だから「まだ何も言ってません」と返した。
それは、嘘ではなかった。本当のことだった。それなのに、腹が立った。
あいつは、いつも結論を、一人で持ってから話を始める。
聞く前から、決めている。仁人の言うことは、どうせ「使う人のため」だと。
だから、最後まで聞かない。そう思うと、また腹が立った。
それに、あいつは、いつも先を見ている。
今日の画面より、半年後の治験。今ここで三日で止まる人間より、その先の、数字になった人間。
事業化されなきゃ意味がない、とあいつは言った。
先が大事なことは、分かっている。事業化されなければ届かない人がいることも、分かっている。
分かっているから、余計に苦かった。
今を軽く見て、先ばかり見る人間に、今ここで止まっている人間の話が、届くはずがない。
けれど、勇斗は最後に、こう言った。
診察で聞く数字は、思い出して答えた数字だ。その日のうちに書いた数字とは、別物だ。
正しい、と思った。正しいから、余計に腹が立った。
使う人のためだ、と言うとき、自分は何が欲しいのかを、言わずに済む。
スマートフォンの画面に、写真が残っている。
交わる二本の線と、丸。右に傾いた、あいつの字。その隣の、自分の字。
削除はしなかった。
ビルの前で、勇斗と舜太は、タクシーを待っていた。
夕方の光が、街路樹の葉を、薄く透かしている。
「お前、さっきの割り込み、うまかったな」
「周りの空気読まんと、止まらんからですよ」
「言うようになったな」
「そう育てられたので」
軽く言い合って、勇斗は笑った。
笑ってから、ふと、隣を見た。舜太は、タクシーの来る方向を見ている。
「……勇斗さん、ようしゃべってはりましたね。仁人さんと」
「意見が割れたからな」
「それは、そうなんですけど」
舜太は、それ以上は言わなかった。
聞かない、という選択を、この後輩は、いつも上手にする。
勇斗は、そこが好きで、少し、怖かった。
タクシーが、角を曲がってくる。
勇斗は、スマートフォンを取り出した。
連絡先の一覧に、仁人の名前があった。消さなかったのではない。
消す理由が、見つからなかった。ただ、それだけのことだ。
『お疲れさまです。今日の件、』
そこまで打って、指が止まった。
仁人の言うことは、全部、正しい。使う人の負担は、事業にとっても損失になる。
それを、自分は、分かっている。分かっていて、言えなかった。
「分かってる」と言う前に、「どうせ使う人のためだと言うんだろう」と、先に決めてしまったから。
仁人は、使う人の側から話す。自分は、会社の側から話す。
同じことをしているのかもしれない、と思いかけたところで、タクシーのドアが開いた。
画面を、伏せた。
「乗りますよ、勇斗さん」
「ああ」
送らなかった一行は、画面を伏せたあとも、頭の中に残っていた。
コメント
1件
うわあ、今回もすごく引き込まれました。勇斗さんと仁人さん、両方とも正しいのに噛み合わないもどかしさがリアルで…。特に仁人さんの「使う人のためだ、と言うとき、自分は何が欲しいのかを、言わずに済む」っていう内省が刺さりました。舜太くんの割り込みと、その後「同じ顔してる」って気づく視点も上手い。ホワイトボードの写真を「仕事の記録だ」と言い聞かせる仁人さん、胸がぎゅっとなりました。