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#茜
💎星乃葵@ペア画中.ᐟ💎
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りおりんご🍎
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今中希美
28
フロアの照明は、半分が落ちていた。
九時を過ぎると、事業部の島には、勇斗のデスクのライトしか残らない。
窓の外は、降り出す前の湿った暗さをしていた。
画面には、表が開いてある。縦に項目、横に「評価への必要度」。
十二の項目に、三段階の印をつけ終えたのは、三十分前だった。
あとは、これを送るだけだ。それだけのことに、三十分かかっている。
宛先を開く。個別のチャットの画面は、まっさらだった。
直接、と言ったのは舜太だが、頷いたのは自分だ。
『お疲れさまです。』
そこまで打って、勇斗は少し手を止めた。この言葉が、自分たちの間で使われたことは、ほとんどなかった。
『お疲れさまです。先日は、』
消した。先日、何があったというのか。ただの会議だ。
『お疲れさまです。表の必要度の列、入れました。』
これでいい、と思って、次の行に進む。
必須の項目を挙げる。日中の眠気、就寝の時刻、起床の時刻、寝つくまでの時間、夜中に起きていた時間。
『それ以外は、仁人にお任せします。』
さん、が抜けていた。入れる。
『それ以外は、仁人さんにお任せします。』
読み返す。堅い。堅いが、これでいい。堅くあるべきだった。
句点を、一つずつ、目で確かめた。全部、ある。疲れているときは、打つのが面倒になって、つい落とす。普段の、気を抜いたやり取りなら、それでいい。けれど、これは仕事の連絡だ。わきまえなければならない。
送信の前に、指が、もう一行分の空白を作った。
『ちゃんと寝てるか』
打ったのは自分の指なのに、画面の文字が、他人の字のように見えた。
業務連絡だ。これは、業務連絡だ。
消した。一文字ずつではなく、まとめて消した。
送信。
画面を伏せて、デスクの上に置き、PCに向き直る。別の資料が開いている。読めなかった。
伏せたスマートフォンが振動するのを、体のどこかが、待っていた。
振動は、来なかった。来ないことに、傷つく理由は、なかった。
会議室には、窓がなかった。
柔太朗は、舜太と二人で、評価の表をもとに臨床側からの意見を重ねる作業をしていた。
時計は、いつの間にか、九時半を回っている。
「ここの『日中の眠気』は、診察でも必ず聞く項目です。ただ、診察で聞く眠気と、その日に書いた眠気は、少し違う意味を持ちます」
「違う、ていうのは」
「診察では、患者さんが、思い出して、まとめて答えます。『最近は、わりと眠いです』というふうに。その日の記録は、もっと生々しいんです。昼食のあとだけ眠かった、とか、会議の最中に落ちかけた、とか」
「ああ、勇斗さんが言うてました、思い出した数字と書いた数字はちがう、のやつですね」
「ええ。僕も、同じことを考えていました」
舜太は、ペンを置いて、少し笑った。
「先生、睡眠外来は、長いんですか」
「二年ほどです。心療内科の一部ですが」
「二年。なんで、睡眠なんですか」
訊かれて、柔太朗は、手元の資料に目を落とした。
「眠れない人は、診察室で、必ず同じことを言うんです。『夜が長い』と。診察は、一人あたり十五分ほどですが、その人の夜は、八時間ある。十五分で、八時間のことを、全部は聞けない。それが、ずっと気になっていました」
「なるほど」
「今回は、大学の医局の教授に、声をかけていただいたんです。診察の外にある夜を、記録で見られるなら、見てみたいと思いました。期間限定の協力、という条件も、僕には、ちょうどよかった」
ちょうどよかった、という言い方を、柔太朗は、少しだけ選んだ。
「舜太さんは、このプロジェクトでは、何を」
「俺は、進行管理です。スケジュールと、課題と、関係者の間の調整。いわば、先生と、仁人さんと、勇斗さんの、通訳みたいなもんです」
「通訳」
「専門が全然違う人が集まると、言葉が通じへんことが、多いんで」
「勇斗さんは、舜太さんの、上司なんですよね」
「配属されたときから、ずっと、あの人の下です。無茶を言う人ですけど、外した無茶は、一回も言われたことないんです」
舜太の声には、笑いと、それとは別の何かが、混ざっていた。
柔太朗は、それを聞き取って、深追いしなかった。
「事業責任者の方にしては、現場に近い方ですね」
「近すぎるんです」
二人は、同時に、少しだけ笑った。
「そろそろ、出ましょうか。今日の作業は、ここまでで十分です」
廊下の照明も、半分、落ちていた。エレベーターへ向かう道は、事業部の島の脇を通る。
島の奥に、デスクのライトが、一つだけ点いていた。
勇斗だった。
画面を見たまま、動かない。
片手が、眉間に当てられている。指で目頭を押さえて、そのまま、数秒、固まっていた。
デスクの上には、伏せられたスマートフォンが、置いてある。
舜太が、足を止めた。柔太朗にだけ聞こえる声で、言う。
「……あの人、今日も、まだ働いてます」
「ええ」
「付き合わされる部下の身にも、なってほしいんですよ。あの人が残ってると、帰りづらいやないですか」
「帰りづらい、ですか」
「って言うても、実際は、先に帰ってますけどね。気にせんと」
舜太は、小さく笑った。
笑ったあと、その笑いが、すぐに消えた。
「ただ、あの人、いつ寝てるんか、俺、ほんまに知らんのです。寝れてるんかな、って、たまに、本気で心配になります」
柔太朗は、勇斗の背中を見た。
診察室の外で、聞かれていない人の睡眠は、覗かないことにしている。
けれど、目の下の影は、初めて会った日から、そこにあった。
「……舜太さんは、よく見てますね」
「そうですか?」
「ええ。眠れているかどうかは、本人にしか分からないことが、多いので。周りが気にしている、というだけで、救われる人もいます」
「本人は、気にしてへんと思いますけど」
「気にしていないふりが、上手な人は、います」
言ってから、柔太朗は、それが勇斗のことだけではないと気づいた。
自分のことも、少し、含まれていた。
島の奥で、勇斗が、顔を上げた。
気配に気づいたのか、こちらを向いて、ぱっと笑顔を作る。笑うと口が大きく開く。
「先生。お疲れさまです。まだいらっしゃったんですか」
「勇斗さんこそ。お疲れさまです」
舜太が返す。
「俺は、もうちょい。……あ、外、降ってきてるな」
勇斗が、窓のほうを見た。事業部のフロアの窓に、細い線が、斜めに走り始めていた。
「ほんまですか。先生、傘、持ってないでしょう」
当てられて、柔太朗は一瞬、返事に詰まった。
「ええ。朝は、降る予報ではなかったので」
「舜太、送ってやれよ。先生に風邪ひかせんな」
「言われんでも、そのつもりです。俺、車なんで、先生、送りますよ。駐車場、地下なんで」
「いえ、電車で帰れます。駅まで走れば」
「走って風邪ひいたら、先生の外来、困る人が出るでしょう」
その言い方に、押しつけがましさは、やはりなかった。
断る理由を探して、柔太朗は、探しきれなかった。
「……ありがとうございます。助かります」
地下の駐車場には、国産のSUVが一台、行儀よく停まっていた。
助手席のドアを開けると、シートの上の書類鞄を、舜太が慌てて後ろに移した。
「すみません、散らかってて」
「いえ、いえ」
整っているのに、人がちゃんと使っている匂いがした。
舜太らしい、と思った。らしい、と言えるほど、この人のことを知らないのに。
舜太は、慣れた手つきでナビに行き先を入れた。
柔太朗が告げた住所は、会社から車で十五分ほどの距離だった。
「近いですね」
「ええ。三月末までの契約で借りた部屋なので、会社の近くを探したんです」
言ってから、柔太朗は、余計なことまで言った気がした。
「仮住まいなので、物も少ないんですが」
「ああ、そうなんですね」
舜太は、それ以上は聞かなかった。聞かない、という間の取り方が、ちょうどよかった。
雨が、フロントガラスを叩いている。ワイパーが、一定の間隔でそれを払う。
柔太朗は、窓の外を見ていた。信号の赤が、濡れた路面ににじんで伸びる。
音楽が小さく流れていた。知らない曲だった。
舜太の手が、いつの間にか音量のつまみに触れて、少しだけ下げた。
信号で停まるたびに、体が前に傾かないことにも、柔太朗は気づいた。
「眠そうですね、先生」
「いえ」
否定してから、柔太朗は少しだけ笑った。
「夜は、あまり眠くならないんです。職業柄、皮肉ですが」
「ああ。……そういうもんなんですね」
「そういうものです。自分のことは、患者さんのようには、うまくいかなくて」
それは、診察室の外で言う言葉ではなかった。口に出してから、柔太朗は窓の外に目を戻した。
舜太は、何も言わなかった。ただ、ハンドルを握る手が、少しだけ、ゆっくりになったように見えた。
「ここです」
「着きましたね。ちょっと待っててください」
舜太は、後部座席から折りたたみ傘を取り出して、柔太朗に差し出した。
「これ、使ってください。すぐそこでも、濡れますから」
「いえ、そんな」
「先生の外来、困る人が出るでしょう」
さっきと同じ理由を、同じ顔で言われて、柔太朗は、思わず、息だけで笑った。
「……お借りします。明日、お返しします」
「いつでも、ええですよ」
ドアを開けようとして、柔太朗は、手を止めた。
「舜太さん、運転、丁寧ですね」
初めて、名前を呼んだ。
呼んでから、先生と呼ばれ続けた十数分の間、自分がこの人の名前を、一度も呼んでいなかったことに気づいた。
「そうですか? 乗り心地、よかったです?」
「ええ。眠くはなりませんでしたが、楽でした」
舜太は、声を出して笑った。笑うと、歯が白く見えた。
「褒め言葉としてもらっときます」
傘を開いて、数歩の距離を歩く。
振り返らなかった。
振り返らない代わりに、背中で、車がすぐには動かないのを、感じていた。
部屋は、物が少なかった。灯りをつけてから、手の中に、借りた傘が残っていることに気づいた。
メッセージが届いたのは、九時十六分だった。
仁人は、開発フロアの自席にいた。
若手のエンジニアが帰ったあとで、島には、自分のモニターの光しかなかった。
通知を開く。勇斗からだった。
『お疲れさまです。表の必要度の列、入れました。必須は、日中の眠気、就寝の時刻、起床の時刻、寝つくまでの時間、夜中に起きていた時間です。それ以外は、仁人さんにお任せします。』
読んだ。もう一度、読んだ。
句点が、全部、ついている。
仕事のメッセージだから、当然だ。
当然のはずなのに、仁人は、それを当然と思うまでに少し時間がかかった。
昔のあいつは、疲れているときほど打つのが面倒になって、句点を落とした。
今日は、全部ついている。わきまえている、ということだ。
眠れていないのだろう、とも思った。
会議室で見た、目の下の影を思い出した。そこまで考えて、関係のないことだ、と自分に言い聞かせた。
返信を打つ。
『確認しました。』
そこで、指が止まる。続きを打つ。
表は、金曜までに入れる。必須項目の入力方法は、別に案を出す。
それは、決めてあった。決めてあることは、すぐに書けた。
問題は、その次だった。
『診察で聞く数字は思い出した数字、という話ですが、あれは』
打った。指が、そこで止まった。
『正しいと思いました』
打って、消した。
業務でも、私事でもない。ただの感想だ。
あの会議のあと、ずっと胸のどこかに居座っていたものを、言葉にすれば、それだった。
けれど、それを伝えれば、あいつは、きっと、何か返してくる。
会議の外で、仕事の外で、何かを。
返ってきたものを受け取る準備が、自分には、まだない。
時計を見ると、十時を過ぎていた。
そこから、もう一度、文面を組み直した。
短くすると、冷たく見える。長くすると、何かを言いたがっているように見える。
ちょうどいい長さは、どこにあるのか。こんな短い返事に、必要以上に時間がかかる。
十一時を過ぎて、ようやく送れた。
『確認しました。負担度の列は、金曜までに入れます。必須項目の入力方法は、別途、案をお送りします。』
句点を、全部つけた。つけてから、思った。
疲れていると、打つのが面倒になって、自分も落とす。
あいつも、それを知っている。だから、仕事の連絡だからと、わきまえた顔をしたかった。
送信を押す指が、画面の上で、少しだけ止まっていた。
押した。
雨の音に、そのとき、初めて気づいた。窓の外を見る。街の灯りが、濡れて、滲んでいた。
コメント
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夜のオフィスの空気感がすごく伝わってくるエピソードでした。勇斗が句点をちゃんとつけて「わきまえる」ところと、仁人が同じように句点に悩むところが対になっていて、二人の距離感と過去の関係性がにじみ出ているのが印象的でした。柔太朗が「眠れているかどうかは本人にしか分からない」と言いながら、自分もその枠に入っていると気づく場面、静かだけど深いですね。傘のやり取りも含めて、些細な行動が人間関係を丁寧に描いているのが好きです。