暗闇の中、松明のみを光源にして馬を引いて進む。何度も通った道は何も変わってはいない。疲れなどとうに越え、誰も言葉を発しない。よくついてきた、帰りも同じになる。王都に戻ったら褒美が必要だ。どれほど歩いた、かなり歩いた、二刻は歩いている。夜中に近い時だ。
「止まれ。邸の囲いだ」
邸の周りを全て囲っている柵に行き着いた。これに沿って行けば門が現れる。
「馬に乗って進む」
足の豆はとうに潰れた、靴の中は血塗れだろう。囲いに沿って馬を歩かせるなら危険もないはずだ。
各々馬に乗り上げるが、限界が近い、よろめく者もいる。悪いがついてこれなければ置いていく。
「行けるか?動けぬ者はここで待て。迎えを寄越す」
俺は進む。ここなら邸に着いてから誰かを送れば済む。体が資本な騎士は頷くがハロルドにはきついだろう。
「ハロルド無理をするな。どうせ年寄に会うのは朝を過ぎてからだ。お前には共に戻ってもらわねばならん」
ハロルドと騎士を一人置き、先に進む。騎士の替えはいても、ハロルドの替えはいない。あれの子はハロルドに導かせる、ここで失くすわけにはいかん。
馬に乗りながら騎士二人に告げる。
「褒美を考えておけ、王都に戻ったらやる」
返事すらできなくなっているが聞こえただろう。半時をかけて門まで辿り着く。
「ハンク・ゾルダークだ。開けろ」
常駐する門番に告げ、腕を上げてゾルダーク当主の指輪を見せる。門番が鐘を叩いて邸に報せている。門が開き、整備された道を進む。蹄が石の上を歩く音が続き、半時経たぬ時に松明で照らされた邸が見えてきた。報せを聞き扉の前で待っていたのは、昔馴染みの老執事だった。
「門を左に出て馬で歩いて半時のところに、王都から連れてきた部下が二人いる。馬車で迎えに行ってこい」
老執事の横で聞いていた使用人が動き出す。
「連れてきたのは四人だ。休める部屋を用意して、五人分の風呂の準備もしろ」
老執事は笑顔で無言だ。ソーマよりも年上の執事はハンクが物心つく頃から年寄だった。ついてきた二人の騎士は使用人に連れられ邸の中に入る。ハンクは自身の部屋へ向かい歩く。何年も入っていない自室は清潔に保たれて、最後に見たときと変わらず目の前に現れる。
使用人が数人、急いで風呂に湯を運ぶ。羽織ってきた頭まで覆うマントを脱ぎ、後ろについてきた老執事に渡す。ソファに座り靴を脱ぐと靴下はやはり血塗れになっている。使用人が湯の入った盥を足元に差し出す。足を湯に浸すと湯に赤が漂う。共にした奴らも同じだろう。
「オットー、全員に薬を渡せ。簡単な物を食べさせろ」
老執事は頷きながら布を渡す。布で潰れた豆を押さえ血を止める。風呂までまだかかるだろう。
「そこまで溺れておられますか」
「ああ」
王都の邸の状態は把握してるんだろう。目の前に立つ笑顔の老人の問いに答えてやる。
「昼前には用を済ませたい」
「大旦那様にも予定があるのですよ」
「そんなものは知らん。用が済んだら戻る」
呼び出したのはそっちだ。使用人が寝室から消えた。風呂の用意は終わったようだ。埃と汗が染み付いた服を脱いでいく。床に脱ぎ捨てていくものをオットーが拾い上げ、ついてくる。湯を桶で掬い、数回頭からかけると砂埃の混ざった湯が流れていく。浴槽に浸かり足を揉みこむ。
「小柄な普通の令嬢、魅力的とは聞いておりませんが」
まだ解せんか。あれのことを理解してもらうために来たのではない。
オットーの独り言は無視をして石鹸で頭を洗う。泡を流し目蓋を閉じる。あれは黒鷲を見ているだろうな。俺といてもよく撫でている。
「オットー。服を寄越せ」
汗臭い服の中からハンカチを出して、湯で洗う。固く絞り浴槽にかける。
朝食の後に用を済ませれば、戻りは無理をしなくて済むか。一人思考にふける。
捨てられた服を拾い上げた老執事はため息を吐く。
「遠い国の媚薬でも盛られましたな」
早く出ていけばいいものを、小うるさい老人だ。立ち上がり綺麗な湯を頭からかけて浴槽から出て、体を拭いて寝室へ向かう。体を拭いた布でハンカチの水分を取り椅子にかけておく。戻る頃には乾くだろう。夜着を着込み、足に軟膏を塗り清潔な布で巻く。それから置かれてあるパンを食べる。
「朝食は多めに出してやれ」
朝しか食べずに来ている。一晩眠れば力も戻り腹も空くだろう。
「ソーマはぼっちゃまを甘やかしすぎですな」
水差しから直接、水を飲み込む。パンを流し込み寝台へ向かう。掛け布に潜り込み目を瞑る。久しぶりの一人寝になる。あれは寂しくて泣いているかもしれん。体は限界だった、オットーが出ていく音にも気づけないほどだ。
夕食は自室でジュノとダントルと共に食べ、部屋の外には出ないよう籠ることにした。食事もソーマかアンナリアが付き添い運ばれ、怪しい者は近づけないよう気をつけた。風呂も体を温めるだけにして残り湯をジュノに渡す。久しぶりに湯に浸かるのだろう、珍しく笑顔を見せるジュノが微笑ましい。ジュノもお仕着せではなく夜着に着替えて眠る。寝室の扉の鍵を回して、居室にいるダントルに声をかけ寝台に横になる。
「閣下は今どこにいるかしら」
まだ蝋燭はつけたまま、私が眠った後ジュノが消すと言う。黒鷲に手を伸ばし、滑らかな頭を撫でる。私は待てるわ、腹の子と待つ。ハンクが無事に戻るならいつまでも待つわ。腹を撫で温める。
「お嬢様、眠りましょう。刺繍を完成させなくては」
ジュノがソファに座り私が眠るのを待っている。戻ってきたら直ぐに渡したい。随分上手くなったのよ。気に入ってくれるといい。
「おやすみ、ジュノ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
目を瞑り枕を抱きしめながらハンクを想う。
扉が叩かれる音に目を覚ます。起き上がり腕や足を揉んで解す。足に巻いた布を剥がすと血が滲み出す。軟膏を塗り清潔な布で巻き直す。出されていた服に着替え寝室から出ると、使用人が湯の入った盥を机に置いていた。手を振り下がるよう命じる。固く絞った布で顔を拭い、口を濯ぐ。朝食を持った使用人が部屋に入り、机に並べていく。端から食べ始め飲み込んで、器に入った水を飲み、また食べる。出されたものを全て腹に入れ、寝室へ戻る。羽織ってきたマントは埃を払われ、壁に掛けてあった。ハンカチは殆ど乾いている。そのまま畳み胸に入れておく。扉が叩かれ返事をするとハロルドが顔を出す。
「食べたか?」
はい、と答えるが顔色はよくない。無理をさせた。歩き方がおかしいな、やはり豆が潰れたか。
「軟膏は塗ってるな」
頷いているなら騎士にも渡っただろう。
「半時後にお会いできます」
「そうか」
予定などなかっただろうに、オットーの奴。
窓の外からゾルダーク領を眺める。森の中に小さな邸を作るか。ここの庭は花が少ない、女主人が長い間いないからだ。年寄がいなくなったらここに移って新しく花園を作ればいい。
「騎士はどうだ、動けない者は出たか?」
ハロルドは首を横に振る。そうか、と答えハロルドに伝える。
「褒美を考えておけ」
無言だな。騎士も無言だったが、返答に困っていたのか。戻ったらソーマに聞くか。時間まで体を休めると伝え、ソファに座る。
「王都へ戻る仕度はどうしますか?」
「しておけ」
俺には用などないんだ。戻りは休憩を入れながらになるだろう。
黙り込んだ俺に頭を下げ、ハロルドは部屋から退室した。
また軽く眠りについていたようだ、扉の叩く音が大きい。入れと答えるとオットーが扉を開けて入ってくる。
「疲れているなら寝台で休んでください」
「どこだ」
オットーはため息をつき、答える。
「執務室でお待ちですよ」
俺は立ち上がり歩き出す。廊下にはハロルドが侍っていた。休んでいればいいものを、後がつらくなるぞ。俺の後ろをオットーとハロルドが続いて歩く。階下に降り、年寄のいる執務室の扉を叩き、返事を聞かずに開ける。執務机の奥に座る自身の父親を見るのは久しぶりだ。年を取ったな、俺もああなるのか。
俺はソファに座り相対する。
「随分早いな」
「用はなんだ、遺言か」
普通ならば、それくらいしか俺を呼ぶ理由がない。
「死ぬにはまだ時はある。息子の嫁を孕ますのはいいが惑溺は見過ごせん。ゾルダークの男が女に金を使い、体に溺れるなど許せんな」
「だったらなんだ。娘を殺すか?」
「ゾルダークの子を宿しているんだろ?今は殺さんよ。何故、息子に媚薬を使わなかった、あれではゾルダークの当主は無理だぞ、弱すぎる。気がふれようが、子種を出せば解決したろう。あの息子が可愛いのか」
媚薬に慣らされているとはいえ、大量に盛られるか、未知の薬を盛られれば、気がふれていく。子は一度ではできない。何度も盛らなければならない、確実に壊れる。
「お前の息子は凡庸だ、お前並みの精神を持てないならば不要だ。種馬にすればよかったのだ」
年寄は抽斗から小瓶を取り出し机に置いた。
「王の息子に効いたんだ、あいつにも効くだろ」
アンダルを嵌めたのは年寄か。
「隣国に王子を売ったか」
「はっ馬鹿言うな、唆しただけだ。上手い具合に王妃の生家が動いたのを手伝った、これも渡したがな」
指で小瓶をつつく。
「王は喜んでいただろ、馬鹿な息子のおかげで国が富を得た。一度なら副作用はないが幾度か使うと気がふれる。腹の子が生まれたら息子に嫁を渡せよ。子ほどに年の離れた女に溺れるなど、ゾルダークの恥だぞ」
「それはいらんと言ったらどうなる」
小瓶を見やり年寄に問う。
「お前には愛情など仕込まなかったが、どこで覚えてきたのか謎だな。報告は正しかったか、わしの言うことは聞かんようだな。折角孕ませたが、孫の後妻はわしが見繕う。もう帰れ、急いで帰れよ。最期には間に合うかもしれんからな」
手を振り退室を促す年寄を睨み教えてやる。
「娘に傷をつけたら、種馬の孫はいなくなるぞ」
年寄から余裕の表情が消える。あれがいなくなれば俺が元に戻ると見誤ったな。
「奴に薬を盛るのは面倒だったから俺が孕ませただけだ。貴様の言う通り愛情など知らん。何が愛かもわからん。そんなものと同等にしてくれるな。俺からあの娘を奪うなら全てを破壊してやる。貴様が築き上げたゾルダークも国も全てだ」
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