部屋には沈黙が流れる。俺は息子を殺すと言ったんだ、守ろうとしても遅れをとったな。ゾルダーク領から帰さなければその計画は実現したろうがな。
「息子を殺すか。愛ではないなら執着だぞ、手放せば元に戻る」
「放さんと俺が決めた。娘が願っても放さん」
ギースはため息をついた。感情を創らなかった反動がこれなのかと。生まれたばかりの赤子に母親の愛を与えず、乳母にも可愛がることを禁じ、同じ年頃の子供と触れ合いを避け、厳しい教育と体の鍛練、常人より優れても褒めず、喜びを与えず、義務的な会話しかしない環境を作った。強い精神と人情などない性根を創れて満足していたのが、四十でこの様。ディーターの娘を娶った結果、己の成果を壊された。その娘のせいではない、孫のせいでもない、頭のおかしい息子の嫁でもない、ギースは天に負けた思いがした。巡り合わせにまで手は届かん。腹が立ち、目の前の小瓶を投げつける。大柄な息子は難なく受けとる。
「娘が襲われていたら孫の命は無いんだな?」
「そう言ったろ。耄碌したな」
ハンクは出立前夜、ソーマに命じていた。
何者でもキャスリンを傷つける動きを見せたら執務室の棚に隠してある瓶の中身をカイランに飲ませるようにと、死にはしないと。
「帰れ、用などもうない!帰れ!娘の亡骸でも抱いていろ」
ハンクは立ち上がり急いで部屋から退室する。その後ろをハロルドが追い、横目で確認して戻る準備をしろと合図する。自室へ戻りマントを羽織る。顔を上げるとオットーが立ち塞がっていた。
キャスリンはダントルを連れていつもの花園へ向かう。
ハンクのいるゾルダーク領の天気はいいのかしら、王都はよく晴れている。日傘をさして歩き始める。曲がりくねった歩道を歩いていると庭師が花を植え替えていた。珍しい、この時に花園で作業をしているなんて。庭師もこちらに気づき、近づいてくる。ダントルが間に入ったから私からは庭師を確認できない。
「若奥様、ギース様は全てを知っております。若奥様をよく思ってはおりません」
私はダントル越しに話しかける。
「その声はサムね、綺麗な花をいつもありがとう」
サムが動き出す気配はない。
「閣下が若い娘に骨抜きなのでしょう?陛下に言われて、骨抜きの意味を調べたのよ」
ふふ、と笑い、話を続ける。
「周りからはそう見えるのね、なぜ誰も私が閣下に骨抜きだと思わないのかしら」
「ギース様は女性を軽んじております。若奥様を亡き者にしてカイラン様の後妻を連れてくる方がゾルダークのためだと、危害を加えるかもしれません」
サムは心配してくれてるのね。私が消えれば元に戻れる、この歪な形を直せる。真っ当な考えね。ただもう遅いのよ、私が消えても直せないわ。ハンクの狂う様が想像できる。それは望んでないでしょうに。ハンクと話して理解してくれるかしら。
私はダントルの横から顔を出し、サムを見つめる。
「サムは私が消えた方がゾルダークのためになると思う?」
サムはきっと老公爵に雇われてる。それだけ長くゾルダークに仕え見てきた人物、そんな彼が今の状態をどう思っているのか気になった。
「旦那様は色に狂ったようには見えません。ただ若奥様を愛しているだけです。若奥様が儚くなれば旦那様は悲しみ、ゾルダークは衰退していくと私は思うのです」
「私に危害を加えるよう老公爵様が命じたの?」
答えは返らない。沈黙が認めていると教えてくれる。
「大旦那様には諭すよう命じられました。旦那様から離れカイラン様の元へ戻れと、でなければ」
私など消す、ということね。カイランが後妻を娶れば、次は閨が怖いなどと言わないわよね。それが正す方法ね。ハンクにはなんて言っているのかしら。同じようなことを言われている?もっと酷いことを言われているかもしれない。
「私が消えたら閣下は狂うわ」
サムは目を見開き驚く。それほど驚くことを言った覚えはないが、狂うとは思わなかったようね。
「私と閣下は離れられないのよ。サム、まだ老公爵様の子飼いがいるの?私を狙っている?」
サムは頷く。
「私はハンクのために私を守らなくてはならないの、ハンクが強くあるためには傷などつけられない。子飼い仲間に話してみて、ハンクがおかしくなるのは確実よ。教えてくれてありがとうサム。私はゾルダークの庭が大好きよ、いなくなったりしないでね」
サムはここの庭の管理者だ。私に告げて消えてしまったら困るわ。
「若奥様が嫡男を産みなさったら傲慢になり、旦那様を操りゾルダークを衰退させると我々を説き伏せています」
よくある話ね。嫡男を産んだ嫁は高慢になるのは仕方ないのよ。大仕事を成して周りにも褒められるし感謝される。
「心に刻むわ。ゾルダークの後継に相応しい、閣下のような子を望んでいるの。私が育てたいのよ。子の見本になるよう生きなくてはね」
サムは頭を下げ、花園の奥へ消えていく。
「お嬢、報告しますか」
「いいえ、閣下が戻ったら私から話すわ」
皆、ゾルダークを心配しているだけよ。私が謙虚に生きていれば、子を立派に育てれば不満はないでしょう。ハンクが私に貢ぐから、ねだったと思われてるのかしら。戻ったら一言言わなくてはね。
「まだ安心はできないわ。警戒は続けてね」
立ち塞がる私を上から睨むぼっちゃまは年を重ねるにつれ険しさを増している。若い令嬢がこれを相手にするなどまだ信じられないが、ぼっちゃまの肩の歯形と首の鬱血痕は執着の証にしか見えない。まさか、ぼっちゃまが願ったのか、なんと面映ゆいことだ。
「急がれますと怪我をしますよ。騎士らも疲れが取れてませんでしょうに、無理を言ってはいけない」
「どけ」
「ぼっちゃまの娘は無事です。大旦那様の仰ったことは真実ではないのですよ」
顔の険しさが取れないか、座って話したいのだが動けないな。
「向こうの子飼いには警告を命じただけです。話しかけるのみ、安心なさい」
益々お顔が険しくなるのはなぜだ?
「近寄ることは許さん」
これは溺れてるなんてものではない、すでに狂っているではないか。若い娘の体は恐ろしい。
「娘に傷をつけていたら、このオットーがギース様を殺しましょう。ですから戻る道程は余裕を持っていただきたい」
ふむ、目元が少し柔らかくなったな。大旦那様を殺すと聞いて落ち着かれたかな。
「娘に傷がついていたなら、年寄もお前も子飼いの奴らも、俺が直接殺す」
これはすごい。ゾルダークを壊滅させるか。
「その娘に出会えてようございましたな」
ここまでならばもう手を出すのは悪手だな。
「ああ」
「今は昼前です、今出ますと夜営になりますよ。馬車で向かい、夜は中で休まれては?連れてきた従者は限界でしょう」
落ち着いてきたかな。あの従者の顔をよく見ればわかるものを、心が急いているな。
「朝を迎えましたら馬車は捨ててください。そこから馬で駆ければよろしい。明日の夕食前には着きます」
ここでぼっちゃまを失うことはできない。カイラン様は当主の器ではない。
「本当にカイラン様を殺す指示を?」
「ああ」
そうか、息子など比べられないほどか。ぼっちゃまの弱みができてしまったな。
「娘は俺の命を握っている。あれを奪うならば全て終わると認識しろ」
「そんな怖い顔をなさると若い娘は逃げますよ」
ぼっちゃまが生まれてから知っているが、娘のことを想うと笑むのか、これはあり得ないものを見た心地がするな。大旦那様が見たら心臓が止まってしまう。
「あれはこの顔を気に入っている」
そんな馬鹿な、娘が盲目だとは報告にない。美醜のおかしな娘なのかもしれないな。
「ようございましたな」
「ああ」
この強面を気に入っているのが事実なら、二人の邂逅は未知の采配か。
「ならば全ての力を以て守らねばなりませんね。ゾルダークの後継も宿している」
「ああ」
何故、ぼっちゃまのような威圧がカイラン様に受け継がれなかったか。王とも対等に渡り合える胆力はどうやって創られたか。育てるのに愛情を与えなくても、結局、唯一を見つけ愛を注いでいる。難しい。なんとまぁ老人に向かって殺気を放ち睨み付けるとは、恐ろしい。
「オットー、よく聞け。娘がこの先、事故に遭ってもゾルダークは終わる。病気になってもゾルダークは終わる。全て年寄を疑うぞ」
大旦那様の対応が変わってくるだろうな。子を産んで用無しになってから少しずつ消そうとしても無駄か。娘を殺すより守っているほうが、ゾルダークは繁栄に向かうか。
「伝えておきます。早いですが昼食にしましょう。連れてきた者達にも用意します。馬車の手配もしなくては」
「ああ」
ぼっちゃまはマントを脱いで壁に掛ける。なんとか馬車には乗ってくれるようだ。
「ぼっちゃま、その娘は刺繍が得意ではないようですね」
事実を言っただけの老人を睨むとは大人げない。もう四十になるのに。
「初めて刺したんだ、味があるだろ」
ぼっちゃまが惚気ているのか。恐ろしい、若い娘は恐ろしい。
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