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ユカリは女神の足元までやってきた。その聖なる巨像の圧倒的な存在感が自身を矮小に感じさせる。巨大であり、また繊細でもある。天を引きずり降ろしそうな躍動的な肉体の曲線、今にも風に靡いて微かに揺れそうな身に纏った長衣の襞。壊れたのか風化したのか、何故か足の爪が剥がれているが、それでも峻険な山々や荒れ狂う嵐のような女神の力強さは毀損されていない。
ユカリは【口笛を吹く】。『感謝の彩り』を奏でる。
選んだのではなく、ユカリの心の内からその場に相応しい歌が自然と湧き上がった。それは白雪草の眩い丘から吹く風のような韻律。かつて幼い頃、丘で戯れ、寝転がり、見上げた青空の大きさに初めて気づいたあの時の歌だ。夜の森から聞こえた魂まで震えさせる獣の遠吠えに、耳を塞いで泣く子をあやす歌だ。
何となくクチバシちゃん人形の頭を撫でるが、特に反応はない。
ユカリの意識がはるか上空の女神の頭上に届く。不遜かもしれないが、この巨像もまた人形であり、人形遣いの魔導書の魔法に隷属されうる存在なのだ。
そこから見える景色は眩いが、残酷な炎に包まれた地獄の様相を呈している。礼拝する者たち市陥落、青の街侵攻、大王国の北方遠征、世界に名高き戦もこのような惨い有様だったのだろうか。
東から西へと徐々にあの蜥蜴の如く手足を蠢かせる炎を使役する焚書官の魔の手が、伸びているようだ。
ユカリは女神に右足を上げさせる。何百年、何千年振りかに光を浴びただろう女神の右足の下の地面には何もなかった。続いて左足を上げさせる。だが、そこにも魔導書は無かった。ここしかないと思ったのに、完全にあてが外れてしまった。
「盲点だったわ」
背後から声をかけられ、ユカリ自身の体が慌てて振り向く。そこにいたのはケトラだった。すぐそばで囁かれたような気がしたが手の届かない距離にいた。普通の人間と同じ大きさの、初めて会った時と同様の姿だ。象牙を溶かしたような亜麻色の巻き毛、芳ばしく香る麺麭のような胡桃色の瞳。眼窩から角など生えていない。
「でも無かったのね」とケトラは苦笑する。「それに探すなら呪いの乙女のほうじゃない?」
「呪いの乙女のほう?」ユカリはぽかんとして呟く。
ケトラの言葉の意味を飲み込むのに少し時間がかかる。ユカリは左足を上げた女神の方を振り返る。天を仰ぎ、両腕を掲げ、咆哮している女神。自分の早合点に気づく。
「こっちが祈りの乙女!?」
聖市街の西の端に聳え立ち、手を組み、目を閉じ、俯く女神こそが呪いの乙女ということだ。
「そういうことよ。あわてんぼうなんだから。さて魔導書を返してもらうわ、ユカリ」
ケトラが追い詰められた獣のように【呻く】と、その体がみるみる大きくなっていく。
何故か眼窩から角が生え、不揃いな牙が伸びる。形も色も揃わない宝飾品に包まれながらも、身につける衣はてんでばらばらの毛皮を組み合わせた襤褸だ。
ユカリの見上げる空が、ケトラの振り上げた足に隠れ、そして振り下ろされる。しかしその強大な鎚の如き足はユカリを踏み潰さずに地面を踏んだ。
その理由が分からず、問いかけるように巨人を見上げるユカリの方へ、ケトラはその大きな手を伸ばし、捕まえようとする。
しかしケトラは祈りの乙女に小突かれた。ケトラの体は大きく傾き、しかし倒れることなく踏みとどまる。
ユカリは祈りの乙女に自分の体を拾わせ、その左耳の中に逃げ込んだ。真っ暗な中で目を瞑り、人形遣いの魔法で得られる感覚、祈りの乙女の背後から見える視界に集中する。
しかし、その瞬間、祈りの乙女の顔をケトラに思い切り叩かれる。叩きつけられた衝撃と強力な遠心力、そして天地のひっくり返ったような酷い揺れでユカリは吐きそうになる。何とか耐えきり、祈りの乙女の巨体を律し、体勢を立て直し、ケトラに向かって白大理石の拳を見舞う。
しかし拳は空を切る。ケトラの体が縮んだのだ。さらにその拳の重さに引っ張られて釣り合いを失い、慌てて踏ん張る。
その時、唐突に、天が割れて光が差した。太陽は西に沈みつつあるが、その光条は天頂から差し、祈りの乙女の全身を照らす。めくるめくような事態の急変に、ユカリの視界も頭の中も何もかもが真っ白になり、そして光に覆われた視界の向こうから拳が飛んできた。
祈りの乙女は大きく後退し、聖市街を囲む壁にぶつかるが、何とかそこで堪えることができた。
これが例の光の魔導書の力なのだろうか。目眩ましに使われるとはユカリも想像していなかった。
「ずるい!」
「ずるくないわよ」ケトラの体の構えは格闘競技者のようだった。「ユカリの方が沢山魔導書を持ってるでしょう? それを使えば良いじゃない」
この状況で他に使えそうな魔導書は一つもない。
ケトラは再び大きくなるが、その丈は祈りの乙女の胸の辺りまでしかない。十分に有利なはずだが、その女神の拳を何度振っても、巨人に当たらない。代わりに振り抜かれたケトラの拳を祈りの乙女が何とか掴む。続いて振るわれたもう一方の拳も捕まえ、祈りの乙女は頭突きをお見舞いした。するとケトラの拳が大きくなり、捕まえていた祈りの乙女の手が開かれる。
ユカリは混乱する自分を抑え、冷静に辺りを見渡す。今度は祈りの乙女の方が小さくなったのだと分かった。
そもそも恐怖の対象が小さくなる魔法だ。相手に勝れば勝るほど不利になる。ユカリはただ叫ぶように話しかける。
「怯えてるんですか? ケトラさん」
「心配はご無用よ。ユカリ」
「何を恐れているか、当ててみせましょうか?」
ケトラの拳をかわして祈りの乙女は距離をとる。
「くっちゃべってないでかかってきなさい」
「ユーアを失うことを恐れているんですよね。知ってるんです。ケトラさんは最も長くユーアの面倒を見てきたんですよね。まるで母親のように」
「だから何? 当然でしょう! それが私の役割なのよ!」
「そうでしょう。そうなのかもしれない。でもそれだけじゃないんです。ケトラさんたち、ユーアの中にいる皆がユーア自身なんです」
ケトラは馬鹿にしたような微笑みを浮かべる。
「ああ、さっきヒヌアラがそんなようなことを言っていたわね。だから何だと言うの? 私のやるべきことは何も変わらないわ」
祈りの乙女の体がさらに小さくなる。ケトラの、今度は足が鞭のように飛んでくる。ユカリは自分自身の体は小さくなっていないことに気づき、祈りの乙女の耳の中で押し潰される前に、耳の穴から這い出て、その耳殻に捕まる。
「でも意味が変わります。ケトラさんもユーア自身なら、ケトラさんが恐れているのは子を失うことだけではなく、母を失うことなのかもしれない」
「母? 私たちにそんなものいない! 私たちはずっと私たちだけだった! ユーアも! ヒヌアラも! パピも! あの子も!」
巨大な足は何度も何度も地面を踏み叩き、その震えが聖市街に響く。
「あの子ってこの子ですか?」
ユカリはクチバシちゃん人形を掲げる。これが踏み潰せなかった理由だろうか、とユカリは想像する。
ケトラの動きが止まる。その巨人の体はみるみる小さくなり、反対に祈りの乙女の像は元の大きさへと戻っていく。祈りの乙女の掌に乗って、クチバシちゃん人形を抱えたユカリは地上に降り立つ。
ケトラが小さくなって小さくなって、角も引っ込み、とうとうユーアよりも小さな幼い少女のような姿になる。
「クチバシちゃん、返して!」とケトラは言った。
ユカリは屈み、微笑みを浮かべ、ケトラにクチバシちゃん人形を渡す。
「返すから、ユーアの所に、ユーアの心に帰ってね」
「うん!」ケトラは素直に頷く。そうしてクチバシちゃん人形を抱えて、燃え盛る街へと走り去った。
二つの魔導書が地面に落ちていた。一方は巨大化微小化の魔導書だった。ユカリはもう一方の記述も読む。祈ることで天から光が差す魔法。それだけだった。
「凄いんだか凄くないんだかよく分からない」
グリュエーがユカリの頬を優しく撫でる。「歌を歌うと皆も歌う魔法よりは使い道がありそうだけど」
「それはそうかも。それはそうと、残りの魔導書は二つだね。ショーダリーさんの方の様子を見てみようかな。門の近くで今みたいに暴れたら子供たちを巻き込みかねないし」
ユカリの意識がショーダリーの背後に現れる。かなり西の方にいるようで、夕暮れの赤に染まってはいるが、炎は見当たらない。
ちょうどショーダリーは遠目に見えた子供のところに駆けつけているようだ。それはメアだった。
「ああ、そこの君」ショーダリーの、子供と話慣れていない感じがユカリにも伝わる。「どういう状況か分からないのか。早く逃げなさい」
メアは不思議そうな表情でショーダリーに指をさす。いや、ショーダリーの後方を指さしていた。
ユカリの意識とショーダリーが同時に振り向く。そこには冷たい表情のネドマリアがいた。
「ネドマリア。どうやって拘束を?」ショーダリーは呟く。
ネドマリアの凍り付いた顔の上で透き通るような琥珀色の瞳が動く。決してショーダリーと目を合わせないようにしているかのようだ。
「良いの良いの、そんな話は。全然重要じゃない、全然よ」ネドマリアはまるで子供が拗ねるような口調で話す。「私ね。ずっと我慢していたんだよ。だってそうでしょ? あなたは一応ユーアちゃんの手駒だったもの。だから我慢してたの。目を瞑ってたの。あなたにも役割があったし、それはユーアちゃんの望みだったからね。可哀そうなユーアちゃん。心優しいユーアちゃん。あなたがワーズメーズの人攫いだと知ってなお優しい女の子」
ショーダリーは一歩一歩後退していた。ネドマリアはそこに留まっていた。しかし、にもかかわらず、不思議なことに二人の距離は徐々に近づいていく。
「一体、何のつもりだ」ショーダリーの声が震えている。
「それなのにね、それなのにユーアちゃんを裏切るなんて。酷い人だね。あなたは本当に酷い人。ねえ、記録、私も見せてもらったよ。あなたが人攫いに関与した全ての子供たちの名前、特徴、売値、取引相手が名乗った名前、特徴。まめなのね、あなた。子供たちのことは覚えているの? 覚えてないわよね。だから記録するんだもの。何で記録していたの? あそこに名前が無ければ、私の姉の名前が無ければ。いくら大嫌いな人攫いの悪党でも殺そうとは思わなかった」
瞬く間に、ショーダリーは黒い蔓に磔にされて膝を突く。首も肩も肘も指のどの関節も少しも動かない。そして喉が締め付けられる。
ユカリはショーダリーの体を操作し、磔から解放しようとするが、ショーダリーの体の方が持ちそうになかった。声にならない声でユカリはショーダリーの名を呼ぶ。ただ血を吐くような呻き声だけが聞こえる。
「そういえばそうだ。元々子供たちを逃がすつもりだったとか言ってたね、ユカリたちが来なくてもさ」ネドマリアがつまらないものを見るような眼差しを向けて微笑みを浮かべる。「お前にそんなことが出来たわけがないだろう、臆病者め」
その時、ショーダリーの虚ろな瞳を覗き込んだのはメアだった。
微笑みを浮かべて手を振っている。「あばよ。人攫いのおじさん」