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ショーダリーが死んでなお、ユカリの慄き震える魂の端切れは薄暗い路地を離れないでいられた。遠くにある自分の体がまるで悪い夢を見てうなされる子供のように震え、冷たい汗を流しているのが分かる。
死の国から吹いてきた乾いた風が、密使の携えた災いの報せのように邪悪な焦げた臭いを薄暗い路地に運んでくる。
冷たい孤独なショーダリーだった骸をメアが蹴り倒す。骸はなすすべもなく地に伏し、その開かれた眼は虚空に浮かぶユカリの意識と目が合った。そこにユカリの目など存在しないがゆえに、ユカリはショーダリーの虚ろな眼差しから目を逸らすことができなかった。
ネドマリアは、メアのその小さな背中を無関心な目つきで見ていた。
「貴女、ヒヌアラじゃないの?」とネドマリアは問いかけた。「魔法の拘束を解いてくれたから、ヒヌアラが助けてくれたのかと、てっきり」
ユカリも初めはヒヌアラだと思っていた。しかし違ったようだ。ヒヌアラではないにしても、ユーアとも思えない。だとすれば、残るは一人しかいない。
振り返り、メアは無邪気な笑顔をネドマリアに見せる。
「あたしだよ、あたし。ところでネドマリア、もうヒヌアラに体を貸してくれないのか? 中々相性が良さそうに思えたんだけどな」
ネドマリアは少し疲れた様子で小さくため息をつく。
「うん。もう終わり、貴女たちとつるむのはね」ネドマリアは別れを示すように踵を返す。「家賃は十分すぎるくらいだったよ。それにユーアへの同情ももう無い、ほとんどね」
メアは首を傾げて尋ねる。「興味があるわけじゃないけど、これからどうするのか聞いてもいいか?」
「いくらでも聞いていいよ、答えないけどね」そう言ってネドマリアはショーダリーに一瞥をくれることもなく死の気配の立ち込める煤と埃の吹き寄せる路地を立ち去った。
メアは、何もかも全てに背を向けたかのようなネドマリアの背中を見送ると、小さくため息をつき、反対方向へと歩き去る。
ユカリの意識はショーダリーの冥福を祈った後、薄暗い路地にすすり泣きだけを遺し、その場を離れた。
意識を自分自身に集中し、ユカリは自分が涙を流していることに気づく。
「ねえ? 大丈夫?」とグリュエーが心配して言った。「ユカリ。どこか痛むの?」
「ううん。大丈夫だよ。グリュエーの声を聞いたら元気出た。さて、呪いの乙女の足の下も見てみないとね。それにしてもこっちが祈りの乙女だとはね。あんな怒りと憎しみみたいな形相で祈る人いる? 神様だけどさ」
ユカリは祈りの乙女の巨大な掌に再び自分を拾わせる。遠目に見てもなお巨大な呪いの乙女が聖市街の西の端に聳え立っている。あちらはあちらで朝のお務めに過ぎないかのような若い神官の澄ました顔で手を合わせ、粛として目を伏せ、その実、呪っているのだという。どちらがどちらか尋ねようとも思わなかった自分の失敗だ、とユカリは靄を払って心を切り替える。
ユカリが白大理石の肩に乗ったその時、聖市街の反対側で呪いの乙女が動き出した。その組んだ手を解し、前かがみになる。何かを拾っているようだ。ユーアか、クチバシちゃんか、ヒヌアラかは分からないが呪いの乙女の魔導書を手に入れたと見るべきだろう。ユカリは改めて自分の間抜けさに腹が立ってしまう。
蝙蝠が塒を飛び立ち、哀れな獲物を求めて飛び交い始める時間になり、太陽は地平線に姿を隠した。しかし聖市街は燃え盛り、昼間のように明るい。
それはユカリが故郷を飛び出したあの夜に似た光景で、それ以上の惨禍が広がりつつある。蜥蜴の火は勝利に勝利を重ねた祝福された軍団のようにさらに勢いづき、屋根を伝い、路地を行き交い、街を全て火の海に沈め、灰に還そうとしていた。
しかしその時、呪いの乙女の足元から底の知れない真っ黒な闇が噴き上がった。まるで地の底を覗き見るような暗闇が洪水のように溢れ、呪いの乙女の巨像の周りから町全体へと浸潤してゆく。地上を歩く人ならば誰も逃れらない速さで街を覆い尽くしてゆく。白い石畳を飲み込み、星明りを反射する屋根を黒く染める。聖市街の壁の内を満たし、ついには蜥蜴の火をも底無しの闇に沈めた。あまりの速さにユカリを肩に乗せる祈りの乙女の足までも闇に隠れてしまったが、しかしそれだけだった。
ユカリが魔導書に【祈る】と、夜の星々も目を眩ませる光が何本も天から聖市街に降り注ぐ。光条の射した地上からは闇が払われ、垣間見えた街並みに火事以外の被害は見当たらなかった。混乱している焚書官たちの姿も見える。祈りの魔導書の光と同様、ただ大地から闇を噴き出すだけの魔法ということだ。火を消せるだけまだ使えるかもしれない。
しかし光を消せば、すぐにまた濃密な闇に覆われてしまった。パディアとビゼには迷わずの魔法があるから大丈夫だが、焚書官たちは大混乱に陥っていることだろう。
とにかく呪いの乙女から魔導書を奪おうとユカリは思考を巡らせる。しかしまだ沢山の人々が聖市街にいる事を考えると、おいそれと白大理石の巨像に街を歩き回らせるわけにもいかない。
ユカリの懸念もお構いなしに、相対する呪いの乙女の白い体を地虫の群れのように闇が這い上っていき、ついには女神像全体が闇に覆われる。
何のつもりかとユカリは警戒する。いつでも祈りを捧げ、光を放てるように構える。
すると、闇に沈んだ聖市街のあちこちに呪いの乙女と同じ形の闇が這い出てきた。次々と何体も何体も、呪いの乙女の影が生まれ出で、それぞれが祈りの乙女の方へと大股で歩いてくる。今度はまやかしの目眩ましというわけだ。
ユカリは【祈り】、神々の微笑みに勝るとも劣らない温かな天の光を呼び、呪いの乙女の影を照らす。影は成すすべなくかといって手応えもなく霧消する。しかし街を覆う闇の沼から新たな影が次々と際限なく這い出てくる。光で払う先から増えていき、ユカリの運も悪く本物の女神像に当たらない。
「一度に吹き飛ばさなきゃ駄目」とグリュエーに最もなことを言われる。
ユカリは少し時間をかけて、故郷での日常では当たり前のようにあったはずなのに、今では省みることの少ない自分の内にあった神々に対する敬虔な心を隅から隅まで搔き集め、一心に祈る。全ての闇を照らし出し給うようにと。
すると太陽にも劣らない全てを明るみに曝け出す光が聖市街全体に発散する。温かみを通り越して夏の真昼のような熱を感じる。呪いの乙女の影も、街を沈めた闇も全て光の下に照らし出す。しかし明るみに出た聖市街のどこにも呪いの乙女は、その白大理石の女神はいなかった。
呪いの乙女は聖市街の外にいた。聖市街の壁を出て西、丘を駆け降り、手付かずの野原を走り去ろうとしている。ユカリと戦うための目くらましではなく、ユカリから逃げるための目くらましだったのだ。そうしている間にも再び、街が微かな光も許されない闇に覆われる。
ユカリは追跡を躊躇う。まさかまだ人のいる街を横切るわけにもいかない。地上の人々からはこちらを見ることも出来ないはずだ。
その時、頭に閃いた直感は自分のもののようには思えなかったが、事態を解決できる他に頼るべきものは無かった。
ユカリは再び一心に【祈る】。目を瞑り、自分の心も体もただ一転に集中させるような思いで、さっきよりもさらに強く、精神を研ぎ澄ませる。そうして再び天の光を放つ。発散させた先程とは逆に一点への収束。心安らぐ温もりではなく、敵を穿つ高熱を願う。光は一直線に聖市街の上空を貫き、光熱の剣は呪いの乙女を縦に両断した。呪いの乙女は矢を射かけられた牡鹿のように力と支えを失い、野原に倒れて瓦解する。
これ以上に不敬な行為があるだろうか、とユカリは震えた。