次に目が覚めると、そこにフランチェスカの姿はなかった。代わりに辺りには微かな鳥の声と、窓からは朗らかな朝日が差し込んでいる。
何が起きたのだったか…確か解呪の後に具合が悪くなって、その後になんだかおかしな夢を見た気がする。体調不良は十中八九フランチェスカの魔力が俺の魔力と反発し合ったせいだろう。きちんと魔力の回収はさせたが、解呪中の魔力のはみ出しについてはさっぱり忘れていた。あまり俺には先生というものが向いていないらしい。
「はぁ…ま、被害を被ってるのが俺だけっていうのが唯一の救いだな…」
起きて早々心にひっそりと傷を負いながら、部屋の扉を開ける。きしむ階段を降りつつ夢について思い出そうとしていると、見慣れた作業室及び客室である一階に見慣れぬ男が一人堂々と佇んでいた。
「あぁ、起きたか。…おい、そう身構えるな」
淡い金髪を後ろへ撫でつけたその男は、どことなく嫌そうにしつつゆったりとした動きでこちらに体を向けた。凛とした雰囲気の美丈夫だがいかにも神経質そうな顔立ちをしていて、直感が俺との相性は最悪だろうと告げる。俺はと言うと、階段横のキッチンから迷わずフライパンを手に取り完全なる臨戦態勢をとっていた。
結界に弾かれていないということはそれ即ち俺に害意がないということ。だとしても、家主の寝ている家に勝手に上がってくる様な奴のことを古くから不審者と言うのだ。身構えるなという方が土台無理な話だろう。
しかしこいつ、家主の俺よりも堂々とし過ぎていて逆にこの部屋から浮いている。他人の家でここまで我が物顔できるというその感性が、何よりも恐怖を覚えさせてくる男だ。フライパンを持つ手に自然と力が籠もる。
「お前…」
誰だと言いかけた所で気が付いた。こちらを射抜く男の瞳、その色がどうにも見慣れた色であることに。紛れもない、紅く輝くガーネットであることに。つまるところ。
「は…ハルヴァルド第一王子殿下…」
「なんだ、私のことは知っているのか」
ハルヴァルドは何故か不服そうだが、いや、実は知らない。が、この国でガーネットの瞳を持つのは王族だけであり、中でも年若いのはフランチェスカとその兄ハルヴァルドだけである。要するに簡単な絞り込みだ。
そんなことは露知らず、俺がきちんと王族を覚えているものだと思い込んでいる彼は滔々と話を続けていく。
「私の可愛い可愛いフランのことは知らなかったというのに…やはりお前にフランを預ける等ありえない。断固反対だ」
「はぁ…」
「何だその間の抜けた返事は。全く嘆かわしい…こんなのが相手だなんて、お兄ちゃんは嘆かわしいぞ!」
やべぇ奴だ。どうしようめちゃくちゃ怖いぞ。何が怖いって、こういう時にがっつり視線を合わせながら言ってくるのが怖い。
「私がこの目で見定めると言っても、フランは煙に巻いてばかりでお前と引き合わせようとはしないからな。こうしてフランの公務の隙をついてやってきたというのだが…お前、何を寝込んでいる。私も暇ではないのだぞ」
いや、それはちょっと理不尽すぎやしないか。
「それはその…ちょっとあれして…」
そっちの妹さんのミスですよだなんて言える度胸もなく、ごにょごにょと濁してみる。駄目だ、流石に目を合わせていられない。最大限目を泳がせつつぶつくさ言っていると、ハルヴァルドは微かに目を細めてから優雅に指を一本差し出した。
「…あぁ、それか?」
その指先はまっすぐ俺の心臓に向かっている。
間違いなく、禁呪の刻印に。
見せてもないのに気付くとは、やはり桁違いの魔力だ。これが現グラナートゥム魔呪術師長…もし協力者となることがあれば、これ以上なく心強い味方となるだろう。しかし、先程からどう見ても敵意剥き出しの相手に弱点を晒せる程こちとら心臓は強くない。ハルヴァルドはフランチェスカの兄であってフランチェスカではないのだ。
警戒して何も答えられないでいる俺と、静かに返答を待つハルヴァルド。少しの沈黙の後、彼は大きなため息を溢してから指を下ろした。ため息つきたいのはこっちの方だ。
「中々解呪も進んではいるがその怨念じみた術式、悍ましい程禍々しいな。お前も、あの爺に執着されるなど不運な奴だ」
「爺って…もしかしてレオンスのことか?見ただけで術者がわかるとか本当に桁違いだな…って言うかあいつ、結構若いと思うけど?」
「馬鹿め、あれは禁呪で肉体の時を止めているにすぎん。実年齢で言うならばほぼオルタンシア殿と同じだぞ」
「オルタンシアと同じ」
ババアは享年87歳で、死後7年が経過した。つまりはレオンス御年大体94歳。
「きゅっ…!?」
そんな年して盛ってたのかよあの野郎!どこまでいっても気持ちの悪ぃ奴だな!?
「おい、五月蝿いぞ。それに私の話はまだ終わっていない。人の話は最後まで聞け」
ぴしゃりと言われて、気まずくなりながらも体を向き合わせ直す。彼はよしと言わんばかりに大きく頷いて、にやりと意地の悪い、けれども彫刻の様に美しい笑みを浮かべた。それは今日初めての不機嫌以外の人間らしい表情だった。
「可愛いフランがお前なんぞに想いを寄せているということは甚だ不本意だが、お前に恩があることも事実。…その解呪、微力ながらも協力してやろう」
「!」
それは途轍もなく有り難い申し出だった。レオンスに勘付かれちゃ困るから大手を振って協力を呼びかけられない上に、大体の魔術師ってのは面倒事には気紛れで首を突っ込む癖に厄介事は疎み嫌う。呪術師はどうしたって天性の魔術師に劣るものだから、ここまで実力のある協力者なんてオルタンシア以来だ。
千載一遇のチャンスを前に、思わず言葉が飛び出した。
「俺、王族相手に恩なんかあったのか!」
「そこからかお前」