うらうらと照り輝く日差しの中、ハウシグ市門へと伸びる古くも頑丈な跳ね橋は下ろされている。緑の堀を越えた向こうには、歴史深き門扉が堅く閉ざされ、力ある沈黙の他にいくつもの呪文で守られていた。グリシアン大陸で広く知られる呪文もあれば、この国の魔法使いが編み出した新しい呪文もある。それらが宿り木の蔦のように複雑に絡み合い、余所者に対して強い力を発している。
石造りの城壁は高く分厚く、いくつもの塔が等間隔に並び、背筋の伸びた巨人のごとく聳え立っている。北側は大河モーニアに沿って、南は半円形に街を囲い、半月形のハウシグ市は憎らし気にテネロードの軍勢をねめつけている。
拱門の上に被さる門楼から、眼光鋭い弓兵と思しき者たちが使者を見下ろしていた。矢を番えてはいないし、呪文を唱えてもいないが、余所者への視線が氷雨のように降り注いでいる。
テネロードの軍使が先頭で白旗を掲げ、ユカリたちは跳ね橋を渡り、門のすぐそばまで進む。すると門の脇の塔から立派な衣装をまとった白髪の老翁が一人、びっこを引いて現れ出でた。
その老いたる姿に反して、角笛の如く朗々と力強く言い立てる。
「我らが川を血に汚し、我らが土を踏み躙りし者に問う。携えるは筆か剣か」
テネロードの軍使が負けじと喉を張り詰める。
「筆なり。我はテネロード王国が使者、軍使流木の洞である。また此方におられるのは貴国が王家、第一王女であらせられるアクティア姫にござる。和平の交渉に参った。古よりの作法に従い、門を開かれよ」
「然らば門は開かれん」あっさりと儀式めいたやり取りを終えると、老翁は随喜の涙を流し、アクティアに深々と頭を下げる。「御久しゅうございます、殿下。ご立派になられましたな。我が眼の曇りも晴れんばかりの威風を感じますゆえ」
アクティアは親しき者のための優雅な笑みを浮かべ、美しい清流の水音のように溌剌と答える。「樫の根翁。久しいが、其方は何も変わらぬように見えますわね」
「然様でございましょうとも。然様でございましょうとも。死の猟犬たる《時》も骨より肉を好みますわい」
老翁は雪の重みに撓垂れる梢のように深々と頭を下げると、再びゆっくりと塔へと戻る。しばらくして門が大仰に軋み、僅かに、人が一人通れる程度に開かれた。
ユカリたちが門を抜けると、まず最初に天へ伸びるように聳える白の王城が眼前に飛び込んできた。大型帆船の舳先のような尖塔が中央にそそり立ち、今にも青天の大海原へと乗り出そうとしているかのようだ。
まだモーニアが今よりも遥かに若々しく、かつ荒々しく、大地を存分に削り取っては海へと運んでいた御代に、力強き愚王の命に従い、理に聡く、手の巧みな罪人たちの手によってハウシグの都市は形作られた。かつては罪多き者どもが戒められた無為と愚痴に溢れた牢獄の都であったが、その美しさは今と変わるところはなかった。ただ後の世のこの都に住まう人々の清められた魂が、長い年月をかけて都市の魂をも浄化せしめたのだった。
広い通りの両脇に、磨かれた鎧の立派な佇まいの兵士たちが姿勢を正し、整列して一行を出迎える。誰一人として歓迎の声も勇ましい声も出さない。その人数に比してあまりにも静寂に満ちており、ユカリは初め、像なのかと錯覚したほどだった。しかしその兵士たちの誰もが、夢と志を漲らせる若者特有の熱烈な視線をアクティアの方に注いでいる。いわゆる庶民の姿は一切見えず、初対面の者が絶えず無表情だった時のように、ユカリを居心地悪く感じさせた。
まるで鎧を纏った巨大蟹のような箱馬車が、大人しい四頭の馬を備えて待っている。王女アクティア、ヴェッテル翁、軍使ミジオス、そして二人の側仕えが馬車に乗り込むと、車輪の軋みまで優雅にハウシグ市の通りを走り出した。
大通りは巻貝のように優美に曲がりくねる。どこへ連れていかれるのか、ユカリには分かりかねた。かといって誰かに尋ねられる雰囲気でも立場でもなかったので、街の様子を眺めることにした。
まるで川底の砂のように滑らかな日干し煉瓦でハウシグの街は形作られている。煉瓦の肌触りだけでなく、その形までも必要に応じて曲線が用いられ、街そのものに柔らかさがある。古の時代には歪と感じられ、恐怖を抱かせた街が、今は気品と知性を拠り所とした学問の都としてアルダニ地方にその名を知らしめていた。
しばらくして庶民の姿が見え始めたが、馬車を気に留める者はいなかった。ユカリは解せない気持ちで窓外を眺める。数年ぶりに人質として敵国に渡った第一王女が帰還することなど誰も聞かされていないかのようだ。
長い間馬車に揺らされ、ユカリたちが連れてこられたのは王城ではなく、離宮だった。
王城にも引けを取らない白亜の宮殿がハウシグの都の南東地域に構えられている。白い前庭には秋の幽かで朧げな光が降り、大河モーニアの縁戚だと誇る噴水と共に、夏の昼間と変わらずはしゃいでいる。整えられた芝生と生垣は未だ青々と茂っており、何かしらの魔術が関わっていることはユカリにも分かった。
離宮への道中、ユカリはベルニージュにひっそりと尋ねる。「私たちは同席できるのでしょうか?」
「よくよく考えると側仕えに発言権なんてないよね」と呆気なくベルニージュは答える。
それにユカリたちが携えている提案と願いは直接和平に繋がる交渉ではない。ベルニージュの母が望む本を貸し出してくれれば、ベルニージュの母は手出しをしない、などと言われても簡単には納得できないだろう。何せハウシグ側はベルニージュの母の恐ろしさなど知らないのだ。
ふと、自分も大して知らないことにユカリは気づいた。ベルニージュの慌てようから推し量っただけだ。
ユカリは小さなため息をつく。「どのみちテネロードの軍使さんのいないところでしか交渉できないですし、同席できたとしても公式の場で出来ることはなさそうですよね」
「それもパーシャ姫が幽閉されているのだとすれば望み薄になっちゃったわけだ。彼らからしたら救出に来たのかと勘繰るしかないだろうし」ベルニージュがアクティア姫に囁くように尋ねる。「殿下。何とか時間を設けられないでしょうか?」
ベルニージュさんは恐れ知らずだな、とユカリは思った。
アクティアがこっそりと答える。「お任せください。ハウシグ側とわたくしだけで話をする機会を作れるよう努めますので御同席ください」
「有り難き幸せにございます、殿下」とユカリは興奮を抑えつつ答える。
殿下を前にした自分は何だか誰かに似ているな、とユカリは思った。
結論から言って、ユカリたちの企みは何一つ上手くいかなかった。
ハウシグ王国の王女アクティアの返還及び多額の身代金を提示してもなお、テネロード王国王女パーシャの返還を拒んだ。またその理由を明かすこともなかった。
アクティアの計らいでユカリたちは、アクティアと親族の再会の時間を利用し、軍使ミジオス抜きでハウシグ側の外交官と秘密裏に会談することはできた。
しかしベルニージュの母という強力な魔法使いの存在を伝え、勝ち目がないと言わないまでもハウシグ側に大きな犠牲を強いることになるということ、それが聖ジュミファウス図書館の書物を一部閲覧させてもらうだけで回避が可能であることを伝えた。しかしこれも拒否された。いかなる理由であれ、大図書館への一切の入館は禁じているとのことだった。これまたその理由を明かすことはなかった。