――はぁ、待ってろと言われてもね。
社員旅行の打ち合わせのため、営業部に呼ばれやってきた私は、フロア内にある小さな会議室で|一野瀬《いちのせ》部長を待っていた。
総務部の仕事は範囲が広く、細かい。
法律を必要とする仕事かと思えば、各フロアにあるリフレッシュスペースの置き菓子(自社製品)の管理までやらなくてはいけない謎の部署。
覚える業務は多いが、入社して数年もすれば、やることはだいたい把握してしまい、仕事にこれといった変化はない。
自分の本日分の業務をこなし、今から社員旅行の打ち合せだ。
総務部の後輩たちは、まだ自分の仕事の最中だというのに――
「代わってほしいくらいですぅ」
「今年の社員旅行の担当だけずるーい」
「一野瀬部長とお話したい」
なんて言って騒いでいた。
私だって代われるものなら代わりたい。
けれど、これは社長命令。
気軽に『はい、どーぞ』というわけにはいかなかった。
「悪い。待たせたな」
大人っいぽい香水の香りが狭い会議室に漂った。
――ぐはっ! 大人の色気にオーバーキルされるっ!
さすが営業部……いいえ、社内で一番のモテ男。
香水まで高級感があり、上等な男を演出している。
爽やかな中に甘い香り。
女を誘う香りだ。
それにスーツも上等なもので、シャツにはシワひとつない。
『出世する男は上等な物を身に纏う。それは隠しきれない野心――by|新藤《しんどう》|鈴々《りり》』
待って?
まさか、男性じゃなくて女性の恋人がいるのでは?
むしろ、いないほうが不自然である。
でも、でもっ~!
この人に彼女がいなんて、そんなの困るわ!
私はどうしたらいいの?
『俺を激しく愛してくれよ!』へのモチベーションが一気に下がって、このままじゃ未完結作品になってしまう。
「どうかしたか?」
「いえ、なにも」
真顔だけど(中身は激しい)、向こうは私のテンションが急落したのに気づいたようだ。
なかなか察しがよくて敏感ね。
そっと心のネタ帳に『部長は敏感』とメモっておく。
またひとつ、いかがわしい妄想が増えた。
妄想は妄想として、彼女がいるかなんて、気軽に聞けない。
でも聞きたい!
苦しい胸のうちを明かせずに、私は平気なふりをするしかなかった。
「まずは、今までの社員旅行のコースから確認しようか。情報を分析した上で決めよう」
「そうですね」
私の汚れた心を悟られないようロボットみたいな返事をする。
仕事ができると評判の一野瀬部長。
すでに過去の旅行やアンケート結果のデータを資料化して持ってきてくれた。
頼れる上司――ざわり。
『これはイケますねぇ~』
『頼れる上司。はい、注目ー! ここ! ここはテストに出ますよ』
教師のコスプレをしたミニ鈴子達がわいてきた。
黒板には頼れる上司、二重丸。
デキる男はイメージ通り。
なんて書いてある。
「温泉はやっぱり人気があるな」
「そうですね。温泉はどの年代にも人気ですから」
「新織さんはホテルより温泉派?」
私の希望を言っても許されるなら――
『これは温泉一択!!』
『|葉山《はやま》君と部長の浴衣姿のツーショットを拝もうぜ! 湯上がりの二人が寄りそう浴衣姿なんて鼻血ものよ!』
『ほろ酔いの二人。乱れた髪と湯けむり情事』
『うまぁ~! ごちそうさまですぅ!』
温泉に異議なし!
私とミニ鈴子たちは満場一致の同意見。
「温泉ですね」
思わず、真剣な顔で答えてしまった。
「……そうか」
し、しまった。
もしかして、真剣に答えすぎて、ちょっと引かれちゃった?
ドキドキしていると、会議室のドアががチャリと開いた。
入ってきたのは営業一課の課長、|遠又《とおまた》課長だ。
確か一野瀬部長とは同期だったはず。
同じ年齢なのに、遠又課長のほうが五歳くらい上に見える。
遠又課長はランニングが趣味というだけあって、細身で筋肉質。
無駄な脂肪はなくて引き締まった体をしてるけど、ちょっと痩せすぎている。
やっぱりほどいい筋肉っていうのがあるからね。
どちらかといえば、遠又課長は苦手だ。
神経質なところがあり、失敗した部下に理由も聞かずに怒鳴りつける短気なタイプ。
しかも、部下の手柄は自分のものにして、上司にはゴマすりばかりしている。
そんなところを何度か見たことがあるせいか、つい身構えてしまう。
「一野瀬部長。女子社員と二人きりか。他の社員の手前、よくないなぁ~?」
「社長直々に頼まれた大切な仕事をしているんだが?」
私の心はやましくても、私たちの関係にやましいところは、いっさいない。
なにかあるのでは?と勘ぐるほうが嫌なかんじなんですけど。
一野瀬部長は『こいつ、なにを言ってるんだ?』という顔をしていた。
――どうやら、一野瀬部長と遠又課長とはあまり仲がよくないみたいね。
二人を黙って観察する。
「社長に気に入られてうらやましいよ。社長はお前の言いなりじゃないか。お前のことだから、総務の新織さんと仕事ができるように仕向けたんだろ?」
同期からの嫉妬かな。
思わず、冷めた目で遠又課長を見てしまった。
これには萌えない。
妄想するにしても、誰でもいいワケじゃないって証明された。
好みってあるのよね、残念ながら。
一野瀬部長は絡まれるのになれているらしく、淡々とした口調で話す。
「遠又。出世したいのはわかるが、ここで喋っていても昇進はできないぞ。仕事に戻れ」
正論です。
私もうんうんとうなずいた。
遠又課長は私をちらりと見る。
な、なによ。
まさか、一野瀬部長に敵わないからって、私を攻撃するつもり?
いいわよ、かかってきなさいよ!
私は細マッチョ(遠又課長)なんて怖くないわよ!
来たれ! ミニ鈴子たちよ!
私とともにこの細マッチョを教育してやるわよ!
ザッとミニ鈴子たちは教鞭を手にする。
『萌えない男には厳しい私達』
『好みがあるのはしかたない。だって人間だもの――byみ○を』
ミニ鈴子たちですら、テンションは低めだ。
私が近づくなオーラを放出しているのに、遠又課長はまったく気づいてない。
遠又課長はわざちらしい咳払いを数回する。
「ここにきたのは、一野瀬と話すためじゃない。新織さん――いや、新織」
なぜ、呼び捨て?
一野瀬部長の表情が強ばる。
あーあ、戻らないから、一野瀬部長の機嫌が悪くなったじゃないの。
これは絶対、遠又課長の査定に響く。
険悪なムードに包まれ、これからどうなるんだろうと思っていると、タイミングよく、ドアがバァンッと開いた。
「遠又課長ー!」
明るい声で入ってきたのは|葉山《はやま》君だった。
今日も美しく整えられたサラサラの髪に、カジュアルスーツスタイル。
爽やかなおしゃれさんだなぁと思いながら、さりげなく小物チェック。
葉山君の腕に目をやると――
プアッーとトランペットが頭の中に鳴り響く。
お・そ・ろ・い!!
腕時計をチェックする。
何度見ても同じ。
『ヤ、ヤバー! 一野瀬部長と葉山君、同じロレックスの腕時計してるぅー!』
『ぎゃっー! 萌え死ぬ! 悶え死ぬぅー!』
『彼女ならぬ彼じゃないですかぁっ』
『やだ、これ、どういうこと!?』
『真相解明を要求する!』
さっきまでの私の不安な気持ちが吹き飛んだ。
そして、遠又課長のこともどうでもよくなった。
遠又課長は割り込んできた葉山君を睨み付けながら言った。
「葉山。なんだ。騒々しいやつだな」
「えー? いいんですか? お得意様から電話ですけど?」
「それを早く言え!」
去り際、遠又課長は私を見る。
――ん? なにかな?
「新織。俺と一緒にスポーツジムへ通わないか?」
「行かないです。新聞、宗教、アウトドアの勧誘はお断りしてます」
悩むまでもなく、即答した。
貴重な休日を細マッチョ(遠又課長)とジムに行くなんて冗談じゃない。
休みはダラダラ過ごしたい派。
大好きなBL小説を読みつつ、お菓子を食べ、録画アニメで好みのカップリングを漁る最高の休日よ!
大人に許された贅沢なひととき!(※ダメな大人の見本です)
それだけじゃない。
今の私はときめきでいっぱいなの……きゅん。
ペアルック――なんて甘美な響き。
同じ会社で働く二人。
内緒の恋人同士。
そんな理由から指輪はできないと判断した二人が選んだもの。
それは腕時計。
そんな素敵なエピソードをネタ帳にダダッと書き込む。
あまりにロマンチックで、うっとりとしてしまった。
「もう一度聞こう。新織、俺と――」
しつこい。
私の妄想の邪魔をするな!
「休みの日に仕事関係者と会いたくないです」
何回聞くつもりだよ。
同じ答えしかでないよ。
私の言葉に遠又課長はムッとして、空気が悪くなってしまった。
そして、遠又課長は私に暴言を吐く。
「ちやほやされるのもあと一年くらいだぞ。どんどん若くて可愛い女子社員に追い抜かれていくんだからな」
遠又課長は私にことごとく断られたのが、気に入らなかったのだろう。
思いも寄らぬ言葉を言われ、なにも言い返せなかった。
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