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第8話『掲示板』
テレビの上で静かに稼働し続けるクーラーの冷気によって、白色の保冷剤のようになった、液晶の細かいヒビ割れが目立つスマートフォンを手に取る。
そして私は、真っ黒の背景に白色の文字でいくつものスレッドが並ぶ『中央中裏掲示板』と題されたサイトにアクセスした。
『【悲報】アルトラ、また警察に捕まるwww』
『アルトラのことが嫌いなやつ集合』
やはり例の暴力事件の影響か——書き込みがある度に上位に来るらしいシステムの、トップ2つのスレッドは、アルトラに関する話だった。
後者はそもそも見る気にもならないので、消去法で上のスレッドを親指でタップする。
一瞬のロードの後、上からゆっくりと書き込みが表示されていき、名前も顔も知らない誰かの、秩序も責任もない世界での書き込みがあらわれる。
『高校生ボコすとかやばくね?』
『トラっていうか、ゴリラやん』
『なんか、同級生の赤星鈴ってやつもいたらしいよ』
書き込みの中に、いきなり私の本名が出てきたので、驚いてスマートフォンを落としそうになる。
夏休み中だというのに、彼らは一体どこからそんな噂を聞き付けてくるのか——感心してしまう程、人を悪く言うことに心血を注いでいるようだ。
『女の子を守るために戦った、って話もあるけど』
『殴り合いの口実にしただけだろ』
『ってか、アルトラに付き従う女なんて、ろくでもない女に決まってる』
……自分の認識が正しいことを証明するためなら、知らない誰かを想像で貶めるのは当たり前。
彼らにとって無知は罪ではなく、むしろ都合よく解釈をするための余地だった。
そんなものを想像力と呼んで、平気で誰かを傷付ける世界を——私は好きにはなれなかった。
しかし、数件の書き込みを流し読みしていると、中には『擁護派』の意見も存在しているようだった。
『私は東小出身だけど、アルトラは理由がなければ暴力を振るわないよ』
『不良に絡まれて突き飛ばしてる姿を見たことがある奴はいても、自分から殴りかかる姿を見たやつはいない』
『そもそも、噂自体が小五の担任の謀略だろ』
そんな擁護派のコメントに対して『自演乙』というコメントも見られるが——意外と潜在的な味方が多いことに驚いた。
「……そっか、皆がみんなアルトラを嫌ってるわけじゃなくて、ただ単に関わらないようにしてるって人が大半なんだ」
確かにそうだ——誰もが私のように、物事に白黒つけて考えようとするわけではない。
その上で、彼らのような集団が一つの思考で動いているのではなく、それぞれが異なる考え方に基づいた異なる意見を述べるのは、考えてみれば当たり前だった。
「いろんな人がいる。僕のことを知ってて嫌っている奴、知らずに嫌ってる奴、あるいは逆に、知ってるから擁護する奴もいて——あの日のリンみたいに、知らずに擁護する奴もいる」
無視やいじめは、彼らの総意によって行われているのではなく、自然に発生しているのだ、と。
包帯をしていない左手で、スマートフォンを操作しながら、彼は言う。
——いじめの構造が見えてきて、私は少し、希望を感じた。
私はアルトラを救える。
私のヒーローを、助けられる。
「それなら、私が名前を出して、アルトラの《正当性》を訴えればいい。そうしたらみんな、きっと分かって——」
「自演乙」
アルトラは、先程のコメントを読み上げるかのように、そう言った。
——まるで、いらないことはしなくていい、と釘を刺すように。
……どうして? 私は、あなたを救いたいんだよ?
急に突き放すような態度を見せた彼に、ショックで口が開いたままになってしまった。
そんな私とは目も合わせずに、アルトラは寒いくらいによく冷えた部屋の壁掛け時計を見ながら、まるで私を諭すように話し始める。
「リン。気持ちは嬉しいけど、正直——そもそも僕は《正義の証明》なんて、必要ないんじゃないかって思ってる。それに、多分放っておいても、正しいタイミングで行われた暴力ってのは、自然と肯定されていく」
まるで大人のような横顔で——嵐が過ぎるのを待つような、どこか寂しそうなのに、何か確信があるような顔で、そう言った。
「……親父の受け売りだけどね。今回の件について、親父は『良くやった』と褒めてくれた」
「そう、なんだ」
「みんなが、自分の立場における正解を選んでいくのなら、このことで僕の立場はきっと変わらない。リンが家族と大喧嘩してまで、誰かを助けようとする意味が——僕にはわからない」
彼はまるで、私が大きなお世話を焼いているのだと指摘するように、そっぽを向いたまま、私の選択を否定したのだった。
アルトラは、私の助けなんて必要としていない——?
ただ一人、私だけが彼にとって『間違った』ことをしている?
私は独り善がりで、勝手に彼を助けようとしている?
目の前のヒーローが遠くに行ってしまったようで、急に身体が震え始める。
——いや、違う。
アルトラに思惑を看破されたような気がして、怖くなってしまったんだ。
……私はなんて身勝手なんだろう。
彼に理想のヒーロー像を押し付けようとして、それを拒絶する哲学を知って、そのうえで私は——彼の『正しさ』を利用しようとしていただけなんだ。
——私が彼に望むものを与えることが、彼にとって『正しい選択』になるように、仕向けようとしていただけなんだ。
そして気付いてしまった。
そもそも《正義の証明》が——
誰の『正義』を証明しようとしているのかを。
今更になって、自分が彼にとって『何でもない』存在で、むしろ彼の世界でただ一人、彼の『正しさ』を否定する邪魔者なのだと分かってしまい——涙が出てきた。
私は、彼を支配しようとしたんだ——
「ごめ……んなさい……」
思えば私は、彼に迷惑をかけているだけではないか。
関わるなというみんなの忠告を無視して、求められてもいない救いの手を差し伸べて、挙げ句の果てに、彼の考えを全く理解できないまま、自分の価値観を押し付けようとした。
それで一人で勝手に泣き始めて……彼を困らせているだけじゃないか。
「私が、間違ってました……迷惑かけて、ごめんなさい……」
涙が頬を伝うのが嫌で下を向くと、大粒の涙がスマートフォンに落ちて、画面が勝手に動き始める。
『偽善者が』というコメントが、まるで私を嘲笑うかのように上下し、私は耐えきれずにスマホの画面を切った。
——私は、汚い女だ。
私は最低の、偽善者なんだ。
「違う——ああ、もう……」
私の泣き声に釣られたのか、アルトラも少し泣いているようだった。
——なんで、あなたが泣くの?
私はあなたを利用しようとして、傷つけて、その傷を汚そうとしたんだよ?
それなのに、アルトラは包帯で涙を拭いながら、私に優しく話しかけてくれる。
「迷惑なんかじゃないし、嬉しかった。だから——本当は、突き放したくなんかない」
……なんで、ここでさっさと帰れって言えないんだよ。
呟くようにそう言うアルトラは、顔を押さえて咽び泣く。
——そんな彼に、私の目は奪われた。
「ごめん、リン。こんな……巻き込んで、悩ませて、苦しませて……泣かせて」
抑え切れない優しさが、孤独を拒んで涙となって、彼の膝の上にぼたぼたと零れ落ちる。
そんな彼の姿に、私の胸は締め付けられるようだった。
——なんであなたは、そんなに優しいの?
あなたを利用しようとした最低な私を、許すどころか——受け入れて、それを自分のせいにするの?
私の汚い涙も、膝の上にボタボタと落ちる。
私が彼を許すなんて、そんな烏滸がましいことを——私はしなくちゃいけない。
「——気にして、ないよ」
私は、どうしようもなく胸の内からこみ上げる衝動を抑えて——この汚れた体がどうしても憎くて、ただ拳を握りしめるしかなかった。
———————
まだ日は高かった上に足取りは重かったが、あれ以上彼と一緒にいると——自分を傷付けたくなって仕方がなかったので、一人公園で時間を潰した。
そして、一応門限の17時に間に合うように家に帰ると、母は三人分の夕飯を作るのを中断して、私を玄関まで出迎えに来てくれた。
「リン、おかえり」
母は、どこに行っていたのかなんてお見通しだ、といった様子で、玄関先で靴を脱いだ私を、強く抱き締めてくれた。
「お母さんは、あなたを応援してる。だからきっと、お父さんもいつかわかってくれるはずよ」
優しく抱擁しながら、父に聞こえないよう小さな声でそう言い終えた母は、抱擁を終えると「お風呂、先に入っちゃいなさい」と言いながらキッチンへと戻って行った。
リビングに顔を出すこともせず、着替えのパジャマが用意してあるのを確認し、汗でベタつく下着を洗濯機に投げ込む。
そして、沸かしたての温かいお風呂に、ラベンダーの入浴剤を一杯投入し、シャワーの水が適温になるまで待ってから、タオルで石鹸を泡立たせて今日一日の疲れや汚れを落とす。
……これで、全ての汚れが落ちてくれるなら、どれだけ良いのだろう。
汚された私の身体では、彼を抱き締めることすら出来ず、傷だらけの手首では、彼の手を握ってやることすら出来ない。
私は——いったい彼の何になれるのだろう。
——いったい彼に何を捧げられるのだろう。
身体を洗っている間、ずっとそんなことを考えながら、スマートフォンをジップロックに入れてから浴槽に持ち込み、身体の芯が少しずつ温まるのを感じつつ、例の掲示板を覗き見ていた。
『結局、赤星鈴って誰だよ』
『その女の子、昔その高校生(当時は中学生)にいじめられてたよ』
『アルトラをけしかけた黒幕ってこと!?』
——誰かに役割を負わせて、それで勝手に納得しようとするという点で、私も彼らと大差はなかった。
掲示板の書き込みを眺めつつ、少し不快な気分になっていると、アルトラからメッセージが届く。
『来週末、良かったら一緒に花火見に行かない?』
通知を見てすぐに『行きたい!』と連絡を返すと、彼からもすぐに既読がついて、笑顔の顔文字が送られてきた。
——私は、許されてしまった。
彼は、まだ私を友人として受け入れてくれているのだ。
「——アルトラ」
ほとんど無意識に彼の名を口にしていた。
——もっと、仲良くなりたい。
もっと、あなたを知りたい。
押し付けるためではなく、分かり合うために。
そんなことを考えていると、ご飯が出来た、と母がお風呂の外まで呼びに来てくれたので、私はすぐに出る、と答えながらスマートフォンの画面を消して、お風呂を上がることにしたのだった。