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チョークで書かれた「犬」──
遥の机に、白く太く、ひらがなで書かれていた。
それが“あだ名”だった。
もう、誰も「名前」で呼ばない。
「おい、犬〜。水、買ってきて」
「“くんくん”って鳴いてよ〜」
「てかまた逃げんなよ? 次はホントに殺すからな〜」
男子が笑う。
女子も笑う。
誰もそれを止めない。
教師も、気づかないふりをして、教室を通り過ぎる。
遥は、黒板の隅に書かれた予定表の「来週の当番」すら読めなかった。
目が、定まらない。
教室の空気に、呼吸が合わない。
身体が、ずっと震えてる。
でも、声にはならない。
目の前に差し出された財布。
「あ? “ごほうび”だよ。いつもありがとうね」
中には十円玉が三枚。
それを手に取るしかなかった。
無言で、立ち上がる。
扉に手をかける。
笑い声が、背中を押してくる。
──逃げ場なんて、どこにもなかった。
(なんで、ここに戻ってきたんだろ)
そんな問いは、何度目かもうわからない。
日下部のところにいた、あの一週間。
何もされなかった。
だから怖かった。
でも、
(……ここは、なにもかも“ある”)
笑いも、声も、暴力も。
誰かが踏みにじってくれる。
誰かが命令してくれる。
(そしたら──“自分で考えなくていい”)
無力でいる方が、楽だった。
哀れまれるくらいなら、殴られた方がマシだった。
──それを、理解した瞬間が一番の地獄だった。
(オレはもう、“飼われてる方が楽だ”と思ってんだよ)
自分の心が腐っていく音が、耳の奥に響いていた。
放課後。
「おい、やるぞー。今日の“くんれん”」
笑いながら、男たちが集まる。
何人いたか、正確にはもう覚えてない。
「オレ、昨日ボコったから今日はいいよな」
「ダメダメ、“日替わりリーダー制度”だろ」
「“おしおき”のルール、忘れんなよ?」
遥の腕が引き上げられる。
制服の袖を切るように、はさみが近づく。
制服代は、もちろん払わせるつもりだ。
「ほら、声出せよ。“ごめんなさい”って、ほら」
「“いい声で”謝らせたいだけなんだからさぁ〜、ねえ?」
笑いながら、指を突っ込まれる。
口の中、喉の奥まで。
(やめろ、やめてくれ──)
思考と声が分離する。
口は黙っている。
でも頭の中では、ずっと叫んでいる。
どこかの女子が動画を撮っているのが見えた。
「日下部くんには、見せなくていいの?」と誰かが言った。
遥の背中が震えた。
見せられたら終わる。
でも、もう終わってるのかもしれない。
(もうどっちが地獄だったのか、わからない)
何もされない、という不安。
何かされる、という絶望。
どちらにも、終わりはなかった。
(だったら──)
いっそ、
自分から壊れた方が、マシだった。