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カッターの冷酷な金属の感触が、指先を通して脳髄まで伝わってくる。
床に転がる「元・サヤ」の絶望に濡れた瞳。
それを見下ろしながら、私は言いようのない全能感に満たされていた。
(これで、私が本物になる。あなたが汚し、放り出したこの輝かしいステージの、唯一の主役に……)
その時、背後からタクヤの太い腕が伸び
私の肩を砕かんばかりに強く掴んだ。
「おい、何してんだ。警察ってなんだよ! こいつ、裏で何企んでやがった!」
男の目は血走り、獣のような殺気を孕んでいる。
私の手にあるスマホの画面───
『警察に行く準備はできた?』という親友からの非情な通知を、彼は食い入るように見つめていた。
サヤはガムテープ越しに、喉を掻き切るような呻き声を上げながら、狂ったように首を横に振っている。
「……知らないわよ。私は、彼女になりたかっただけ。彼女の個人的な悩みなんて、一ミリも興味ない」
私は冷たく言い放ち、サヤの服のポケットから震える手で彼女自身のスマホを力ずくで抜き取った。
指紋認証。抵抗する力も残っていないサヤの指を、無機質なセンサーに無理やり押し当てる。
カチリ、と絶望のロックが解除された。
開かれた画面の中には、私が今までスマホ越しに愛し
崇拝してきたキラキラしたインスタの世界とは、似ても似つかない「どす黒い真実」が澱みのように溜まっていた。
画面を埋め尽くす非通知の着信履歴。
数えきれないほどの「死ね」「消えろ」「金を返せ」という罵詈雑言が並ぶダイレクトメッセージ。
そして隠しフォルダには、彼氏から受けた目を覆いたくなるような暴行の証拠写真が、日付と共に整然と保存されていた。
「……これ、全部警察に送るつもりだったのね」
私は思わず、乾いた声で呟いた。
サヤは、この泥沼の地獄から抜け出すために
積み上げてきた虚飾の人生をすべてかなぐり捨てて、彼氏を道連れに心中する覚悟だったのだ。
「ふざけんなよ……! このアマ、俺を売る気満々だったのかよ!」
男が激昂し、血管を浮き上がらせてスコップを高く振り上げる。
その瞬間
静まり返ったマンションの廊下から、複数の重い足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。
ドンドンドンドン!
鼓膜を震わせる、暴力的なまでのノック音。
「佐藤さん! 佐藤サヤさん! 警察です、開けなさい!」
「チッ、早えな……クソがっ!」
男は明らかに狼狽し、焦点の定まらない目で私とサヤを交互に見た。
「おい、お前!サヤのフリしろ! 上手く丸め込んで追い返せば、この部屋も服もフォロワーも全部お前にやる!」
男は瀕死のサヤをクローゼットの奥へと乱暴に蹴り込み、私をドアの前へと突き飛ばした。
鏡を見て表情を作る余裕なんてない。
私は耳元で疼くピアスの傷口を指で強く押し込み
その激痛を燃料にして、最高の「営業スマイル」を顔面に貼り付けた。
(……大丈夫。私はサヤ。私は、世界中に愛される無垢なインフルエンサー、サヤなんだから)
私は震える指先で、ゆっくりとドアのチェーンを外した。
「……はい。あ、あの、夜分にすみません。何かありましたか?」
サヤが動画で披露していた、あの一番可愛らしく
庇護欲をそそる困り果てた声。
ドアの隙間から覗いた警察官の顔が、私を見た瞬間、驚きに固まった。
「……佐藤サヤさん、ですね?」
「はい。そうですけど……何か急用でも?」
警察官は私の顔を穴が開くほど見つめた後、背後の同僚に向かって無線で低く告げた。
「……確保。手配中の重要指名手配犯『佐藤サヤ』本人と思われる女を発見。容疑は、組織的な多額投資詐欺、および……」
心臓が凍りつき、視界が真っ白に染まる。
私が欲しくてたまらなかった「サヤ」という名前。
それは、輝かしいステージへの切符ではなく、奈落の底へと続く、片道切符だったのだ。
#パワハラ上司
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