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夜は、
やけに静かだった。
時計の針が進む音が、
いつもより大きく聞こえる。
私はソファに座って、
膝の上で手を組んでいた。
彼は、
少し離れたところで、
スマホを見つめている。
画面は、
まだ暗い。
でも、
その指先が、
何度も浮いては止まる。
(…迷ってる)
声をかけたい衝動を、
必死に抑えた。
これは、
私が踏み込んではいけない場所だ。
彼が、
自分で選ばなければならない。
「…由莉」
静かな声。
「…何?」
「…調べたら」
1拍、置いて。
「…全部、戻る気がする」
胸が、
ゆっくりと沈む。
「…そう、かもね」
それしか、
言えなかった。
「…でも」
彼は、
スマホを強く握る。
「…怖い」
正直な声。
「…知ったら、今が壊れる」
私は、
深く息を吸った。
「…壊れるかどうかは、分からない」
嘘だった。
壊れる。
必ず。
でも、
それを言うのは、
私じゃない。
「…選ぶのは、あなた」
彼は、
ゆっくり頷いた。
それから、
スマホを伏せる。
「…今日は、やめる」
その選択が、
胸に刺さる。
(先延ばし)
(でも、優しい先延ばし)
その時だった。
― チャイムが鳴った。
2人とも、
同時に顔を上げる。
こんな時間に。
「…誰だろう」
私が立ち上がろうとすると、
彼が先に言った。
「…僕が、出ます」
玄関に向かう背中が、
少しだけ硬い。
ドアが開く音。
低い声。
「…雪下さん、ですよね」
その名前が、
空気を切った。
胸が、
はっきりと鳴る。
(来た)
戻る世界が。
「…お迎えに、来ました」
丁寧で、
仕事の声。
彼は、
しばらく黙っていた。
それから、
振り返る。
視線が、
私を探す。
私は、
小さく頷いた。
(行って)
(でも、行かないで)
矛盾した気持ちが、
胸を満たす。
「…少し、時間をください」
彼は、
そう言った。
ドアが閉まる。
静かになる。
彼は、
ゆっくりこちらに歩いてきた。
「…由莉」
名前を呼ばれる。
それだけで、
泣きそうになる。
「…1晩だけ」
彼は、
真っ直ぐ言った。
「…ここに、いさせて欲しい」
その言葉が、
胸に深く刺さる。
「…良いよ」
声が、
少し震えた。
彼は、
何も言わずに、
私を抱き締めた。
強くない。
でも、
離れない。
胸に、
顔を埋める。
「…ありがとう」
声が、
すぐ近くで聞こえる。
「…ごめん」
「…謝らないで」
それだけ言うのが、
精一杯だった。
抱擁は、
長くなかった。
でも、
確かだった。
夜。
布団に入っても、
眠れない。
彼は、
隣の部屋にいる。
それが、
今夜で最後かもしれない。
天井を見つめて、
私は思う。
(検索してはいけない)
(でも、検索しない訳にもいかない)
時間は、
もう残っていない。
それを、
私だけが知っている。
― この夜は、
境界線の上にある。
戻る前の、
最後の静けさ。