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朝は、
驚くほど普通に始まった。
カーテン越しの光。
遠くの車の音。
時計の針の進む音。
何も、
変わっていない。
― それが、
1番、怖かった。
「…おはよう」
彼の声がする。
少し、
硬い。
「…おはよう」
私は、
いつも通りに返した。
“いつも通り”が、
今日で終わる事を、
2人とも知っているのに。
朝食は、
ほとんど手をつけられなかった。
彼は、
何度も時計を見る。
「…迎え、もうすぐ来ます」
「…うん」
それだけ。
言葉が、
余る。
チャイムが鳴った。
昨日と同じ音。
でも、
意味は違う。
玄関に立つ彼の背中は、
昨日よりも、
少しだけ遠く感じた。
「…行ってきます」
「…行ってらっしゃい」
そのやり取りが、
胸に刺さる。
病院の待合室は、
白くて、静かだった。
医師の説明は、
とても丁寧で、
とても冷静だった。
一時的健忘。
強いストレス。
環境の変化。
「記憶は、段階的に戻っていきます」
その言葉を、
彼は真剣に聞いていた。
私は、
少し後ろの椅子に座って、
手を握りしめていた。
「完全に戻るまで、しばらくかかるでしょう」
「…はい」
彼の声は、
落ち着いていた。
でも、
私は分かる。
これは、
“終わり”じゃない。
“回復”だ。
診察が終わって、
廊下を歩く。
彼は、
少しだけ立ち止まった。
「…由莉」
名前を呼ばれる。
振り向くと、
彼は、
真っ直ぐこちらを見ていた。
「…今、思い出してる」
胸が、
ゆっくり沈む。
「…何を?」
「…沢山」
少し笑ってから、
続ける。
「音楽も。ステージも。仲間も。」
1泊、置いて。
「…責任も」
それが、
彼の世界だ。
「…でも」
彼は、
視線を逸らさなかった。
「…最初に戻ってきたのは」
喉が、
ひりつく。
「…あなたです」
その言葉が、
胸を貫く。
「…朝のキッチン」
「…マグカップ」
「…名前を呼ばれた夜」
1つ1つが、
正確過ぎて。
「…思い出したから、大事なんじゃない」
静かな声。
「…忘れてても、選んでたから」
その言葉に、
私は何も言えなかった。
帰り道、
彼は、
電話をかけた。
事務所。
仕事。
スケジュール。
現実が、
彼を連れ戻していく。
私は、
少し後ろを歩いた。
並んで歩くのが、
もう違う意味を持ってしまったから。
部屋に戻ると、
空気が変わっていた。
同じはずの部屋なのに、
もう“仮の場所”じゃない。
「…今日は、ここまでです」
彼が言う。
「…迎えが、来ます」
「…うん」
それだけで、
十分だった。
荷物は、
ほとんどない。
彼が、
玄関で立ち止まる。
「…由莉」
「…何?」
「…ありがとう」
その一言に、
全てが詰まっている。
「…身体、無理しないで」
その言葉が、
胸に刺さる。
(それは、私が言うはずだったのに)
「…うん」
私は、
笑った。
彼は、
1歩、外に出る。
振り返って、
最後に言った。
「…また、会いに来ます」
それは、
約束じゃない。
選択だった。
ドアが閉まる。
音が、
静かに消える。
私は、
その場に立ち尽くして、
しばらく動けなかった。
彼の世界は、
戻っていった。
正しい場所へ。
正しい音へ。
でも、
最初に思い出したのは ―
私だった。
それだけで、
この時間は、
確かに存在していた。
― そして、
ここから先は、
“別の物語”が始まる。
2人が、
それぞれの世界で、
選び直す物語が。