テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
朝は、
驚くほど普通に始まった。
カーテン越しの光。
遠くの車の音。
時計の針の進む音。
何も、
変わっていない。
― それが、
1番、怖かった。
「…おはよう」
彼の声がする。
少し、
硬い。
「…おはよう」
私は、
いつも通りに返した。
“いつも通り”が、
今日で終わる事を、
2人とも知っているのに。
朝食は、
ほとんど手をつけられなかった。
彼は、
何度も時計を見る。
「…迎え、もうすぐ来ます」
「…うん」
それだけ。
言葉が、
余る。
チャイムが鳴った。
昨日と同じ音。
でも、
意味は違う。
玄関に立つ彼の背中は、
昨日よりも、
少しだけ遠く感じた。
「…行ってきます」
「…行ってらっしゃい」
そのやり取りが、
胸に刺さる。
病院の待合室は、
白くて、静かだった。
医師の説明は、
とても丁寧で、
とても冷静だった。
一時的健忘。
強いストレス。
環境の変化。
「記憶は、段階的に戻っていきます」
その言葉を、
彼は真剣に聞いていた。
私は、
少し後ろの椅子に座って、
手を握りしめていた。
「完全に戻るまで、しばらくかかるでしょう」
「…はい」
彼の声は、
落ち着いていた。
でも、
私は分かる。
これは、
“終わり”じゃない。
“回復”だ。
診察が終わって、
廊下を歩く。
彼は、
少しだけ立ち止まった。
「…由莉」
名前を呼ばれる。
振り向くと、
彼は、
真っ直ぐこちらを見ていた。
「…今、思い出してる」
胸が、
ゆっくり沈む。
「…何を?」
「…沢山」
少し笑ってから、
続ける。
「音楽も。ステージも。仲間も。」
1泊、置いて。
「…責任も」
それが、
彼の世界だ。
「…でも」
彼は、
視線を逸らさなかった。
「…最初に戻ってきたのは」
喉が、
ひりつく。
「…あなたです」
#記憶喪失
辛い壁 〝からいかべ〟
1,444
90
玲:スランプで休止
14,278
#記憶喪失
その言葉が、
胸を貫く。
「…朝のキッチン」
「…マグカップ」
「…名前を呼ばれた夜」
1つ1つが、
正確過ぎて。
「…思い出したから、大事なんじゃない」
静かな声。
「…忘れてても、選んでたから」
その言葉に、
私は何も言えなかった。
帰り道、
彼は、
電話をかけた。
事務所。
仕事。
スケジュール。
現実が、
彼を連れ戻していく。
私は、
少し後ろを歩いた。
並んで歩くのが、
もう違う意味を持ってしまったから。
部屋に戻ると、
空気が変わっていた。
同じはずの部屋なのに、
もう“仮の場所”じゃない。
「…今日は、ここまでです」
彼が言う。
「…迎えが、来ます」
「…うん」
それだけで、
十分だった。
荷物は、
ほとんどない。
彼が、
玄関で立ち止まる。
「…由莉」
「…何?」
「…ありがとう」
その一言に、
全てが詰まっている。
「…身体、無理しないで」
その言葉が、
胸に刺さる。
(それは、私が言うはずだったのに)
「…うん」
私は、
笑った。
彼は、
1歩、外に出る。
振り返って、
最後に言った。
「…また、会いに来ます」
それは、
約束じゃない。
選択だった。
ドアが閉まる。
音が、
静かに消える。
私は、
その場に立ち尽くして、
しばらく動けなかった。
彼の世界は、
戻っていった。
正しい場所へ。
正しい音へ。
でも、
最初に思い出したのは ―
私だった。
それだけで、
この時間は、
確かに存在していた。
― そして、
ここから先は、
“別の物語”が始まる。
2人が、
それぞれの世界で、
選び直す物語が。