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人々の悲鳴が響き渡る中、さて、どうしたものか、と考えながらベルニージュは腕を組んで、波立ち濁るユードル川と、その支配者であるかのようなふてぶてしい巨大蛇を睨みつける。
ただでさえ順番待ちの果てに、いつになれば渡し船に乗れるか分かったものではなかったのに、このままでは渡し守たちは下流へと逃げてしまうかもしれない。
しかしその心配はなかった。ベルニージュが対岸に目を凝らすと残り二隻に乗り込んでいた者たちが陸へと逃げている。どちらにせよ船には乗れなくなった。
蛇除けの呪文ならば数限りなくある。さりとて、これでもう蛇は出ないから船を出してくれと言っても、取り付く島もないだろう。襲われないことを証明するのは至難だ。
人々の恐慌状態を見るに、あのような巨大蛇がこの川に身を潜んでいることを誰も知らなかったようだ。
船が犠牲になるまで誰も襲われなかったのなら、人を食うために陸へと上がって来る心配もなさそうなものだが、壊れた石橋の先にベルニージュを残してみな逃げていく。
陸へ上がって来ないのもそれはそれで問題だ。川の中の蛇を焼き殺す方法をベルニージュは知らない。近い方法で、焼き魚を釣りあげる魔術があると聞いたことがあるが、関心を持たなかったことを少し悔やむ。魔導書があっても、次々流れてくる川を蒸発させるのはさらに難しい。どちらにしても、この手で蛇を殺したくはない。
陸に上がるとすれば巣穴に帰る時だろう。陸にさえ上がれば何かしら手立てはある。早速準備を始めようと考えたところで、呼びかけられ、振り返る。さっきの隊商の恰幅の良い女だった。
「何をしてんだい、嬢ちゃん! 蛇に食われっちまうよ!」ベルニージュが何かを言う前に女は首を横に向けてさらにまくし立てる。「ほら! あんたたちも! そんな所で何してんだい!」
ベルニージュが視線を追うと、離れたところで三人の若者たちが巨大蛇の消えた川面を見ながら何やら言い合っていた。年のころは二十前後というところで、全員が簡単に鎧い、剣か槍か弓を携えている。とはいえ、どう見ても職業軍人などではなく、血気盛んな若者という印象だ。女の呼びかけにちらとこちらを見るが興味なさげに言い合いに戻る。
「渡し船に乗る順番はもう決まっていたんですか?」とベルニージュは女に尋ねる。
「何だい? こんな時に」と女は呆れるが答えてくれる。「ああ、船に乗るつもりの者たちで勝手に決めたよ。あたしらが一番だったのさ。まあ、もう乗らないけどね。困ったもんだよ。商い先を変えるにしても何にしても出費がかさむんだから、やになっちゃうね」
「そのことなんですけど」ベルニージュは若者たちから視線を戻し、女に頼み込む。「ワタシが蛇を追っ払ったなら先に船に乗らせてもらえませんか?」
「あんたがかい!?」女は目を丸くして、ベルニージュを眺める。「そりゃあ、それができるんならだれも異論はないだろうけど。できるのかい?」
「ええ。上手くやれば」
ベルニージュの自信に満ちた眼差しに気圧されるように商い女は何度も頷く。
「わかった。誰にも文句はつけやしない、つけさせやしない。できるだけ他の連中にも伝えてくるよ」
女の視線を追うと、女の所属する隊商だけでなく、まだ遠くまで逃げずに遠巻きに眺めている者たちが何人かいる。
「お願いします。まあ、断られても蛇退治は行いますが」
女を見送ると、ベルニージュは背嚢を降ろし、魔術に必要な物を次々に取り出していく。黒檀の大鋸屑を二摘まみと緑地だけに棲むという怖ろしい毒蛙の腺の干物、穴熊の毛を数本、そして読み終えた本の頁を一枚。そこに呪文を書き込んでいき、破って何枚かに分けると、背嚢から取り出した魔法的な品々を包んでいく。
作業の間中、商いでもするような女の威勢のいい呼びかけが聞こえていた。そして女は戻ってきて、人々から了承を得たことを報告してくれる。
「それで、あんた一体全体どうしようってんだい?」
ベルニージュは簡単に説明する。「まずは帰巣本能に訴えかけて、ここから追い出します。少し手伝っていただけますか?」
女は驚いた様子でおずおずと尋ねる。「危険はないのかい?」
「もちろん。これは準備の準備みたいなものですから」
そこへ先程の三人の若者たちがやってくる。全員が男なので、ベルニージュは少し退く。
「蛇を退治するってのは本当か?」と若者たちの一人が偉そうにふんぞり返りながら言った。
三人の中でもこの若者は特に立派な熊の毛皮の衣を纏い、鋼の胸当ては分厚く、全体的に清潔な身なりをしている。一目で、他の二人と比較して高い身分だと分かる。
ベルニージュは女の後ろに下がる。いきなり手を出してはいけないことは分かっているが、出てしまうのはどうにもならないので初めから近づかないようにする。
「ああ、あんた、白麦の町の若さんじゃないか」と女が若者に言う。「あたしらも町長さんにはずいぶんとお世話になってね」
「おい、女よ。俺の名は勇ましき長子だ。二度と若と呼ぶんじゃねえ」ジュニーは忌々し気に顔を顰めて言う。
「ああ、そりゃ済まんね。街の皆がそう呼ぶもんだからさ」
行商人の女が謝るのを聞くと、ジュニーは女の背中に隠れるベルニージュを覗き込むように向き直る。「それより答えろよ。蛇を退治するのか、しないのか?」
行商人の女が避けようとするがベルニージュは追随する。
「ちょっと、あたしを挟んで話す必要はないだろ?」ベルニージュが黙って小さく首を振ると間に挟まれた女がため息をつき、代わりに答える。「そうらしいよ、ジュニーさん。嬢ちゃんが何か蛇退治の魔法を使ってくれるそうだ。そうなんだろう? 嬢ちゃん」
ベルニージュは「ええ、そうです」と言うと、手を開いて特製の魔法を込めた包み紙を三つ見せる。「これを燃やして、その煙を蛇に嗅がせます。するとあの蛇は巣に戻っていくはずです」
若者たちが覗き込もうとするので、ベルニージュは再び女の背中に隠れる。
「何だ。その煙で殺しちまうわけじゃねえのか」とジュニーは不満げに言う。
「でもよ、若」と言った槍を携える背の高い男をジュニーは小突く。
「さっきの今だぞ、雪の如き。さっきの! 今だ! お前は何度言ったら分かるんだ! 二度と若と呼ぶなと言ったのは何度目だ!? ええ!?」
「ごめん。ジュニー」とシーガスは悲しげに言う。
シーガスと呼ばれるその男は三人の中でもひときわの巨躯で筋肉質だが、鎧らしきものを身につけてはおらず、着ている防寒具も狐の毛皮を継いだものだ。
その高いところにある二つの円らな瞳は本当の悲しみに色づいていた。友人同士のおふざけではなく、本当に言い間違えたらしい。
逆にベルニージュは高いところから見下ろされ、隠れられていないことに気づいて落ち着かなくなる。
「それで、でも何だ?」とジュニーは尋ねる。
シーガスはベルニージュから視線を戻して嬉しそうに意見する。「その子供、本当に本当のことを言ってるのか? 信用できないだろ。あんなでけえ馬連れて子供が一人旅なんて変だ。怪しい」
「魔法使いだろ? 魔法使いってのは変なもんだぜ?」とジュニーはにやにやと嫌な笑みを浮かべて、行商人の肩の辺りから覗き込んでいたベルニージュに小さく手を振る。
「それにこいつに頼らなくても、ジュニーなら巨大蛇を退治できるだろ? 親父さんだって巨大蛇退治はしたことねえはずだが、ジュニーなら違う」
ジュニーはにやりと笑みを浮かべて言う。「確かにそうだ、シーガス。お前はよく分かってるな。巨大蛇を退治すれば、俺を親父の添え物のように扱うお前のような奴に一泡吹かせられる」
「俺は、そんなつもりねえよ」とシーガスは巨体をできるだけ縮こめて言うがジュニーは聞く耳を持たない。
「やめた方が良い」と言ったのは三人の中では最も小柄な弓を携えた男だ。「ジュニー一人であの蛇を退治するなんて無理だ。鶏を絞め殺したこともないのに」
「いやいや、鹿の角! お前らも来るんだよ!」とジュニーは唾を飛ばして言う。
ミグドは小柄ながら丸々としているが、体型なのか、その熊の毛皮の下に鎧っているせいなのかは分からない。太い眉を極限まで顔の真ん中に寄せ、濁った眼で、行商人の女の脇腹から顔を覗かせるベルニージュを睨みつけている。
「何だ、助けがいるのか」とミグドはほくそ笑んで言う。「ならそのがきを連れて行けばいい」
「お前ら、俺を一人で行かせるつもりだったのか!? 薄情者め!」
「少なくともシーガスはそのつもりだったんじゃないか?」と小さなミグドは大きなシーガスを見上げて言う。
シーガスは目を輝かせて言う。「俺はジュニー一人でも退治できると思ってるぞ!」
「お、おう、お前は無自覚に俺を追い詰めるよな」とジュニーは肩を落として言った。そしてベルニージュの方を見やる。「とにかくだ。あの蛇に川の中に居座られちゃあどうにもならねえ。町も迷惑、旅人にも迷惑だ。それを俺が華麗に対峙する。悪くない。さっさと煙とやらを蛇に嗅がせようぜ。火を熾してやろうか? その包みを貸してみな」
ベルニージュは何も言わずに包みを水際に放り投げる。包みは地面に落ちた途端に、大きく燃え上がり、濛々と白い煙を吐き出した。煙は怪我をした四つ足の獣のように川面を流れていく。
両岸で人々が見守る中、川面の盛り上がりが煙へと近づいてくる。川の中ほどまで煙が届くと、水飛沫を立てて現れた巨大蛇が煙の獣に食いつき、しかし空振り、煙を嗅いだためか苦しそうにのたうつ。人々の期待の眼差しに応えるように、巨大蛇は上流の方へと泳ぎ去っていった。
「あ、忘れてた」と言ってベルニージュは背嚢から干乾びた林檎を取り出した。
「それをどうするんだ?」とジュニーが言う。
ベルニージュは蛇の方を見つめて言う。「蛇に食べさせたかったんだけどな」
「近くに投げれば食いつくだろう。貸してみろ」とジュニーが言うのでベルニージュは林檎を放って渡す。
受け取ったジュニーは林檎を見、去り行く巨大蛇を見、「お前に任せようシーガス」と言ってシーガスに林檎を渡す。「蛇の逃げる先に投げ込むんだぞ」
「任せろジュニー」と言ったシーガスが全身のばねを思い切り使って林檎を投げる。
干乾びた林檎は川を越えかねない勢いで大きな弧を描き、見事巨大蛇を越えてその鼻先に着水した。蛇は迷うことなく林檎に食いつき、再びのたうつがそのまま上流へと泳いでいく。
「いったいどんな呪いがあの林檎に込められていたんだ?」とジュニーはベルニージュに尋ねる。
ベルニージュは背嚢を背負い、ユビスを行商人の女に託して言う。「喉に引っかかってむせる呪い」
「何だそりゃあ。もしかしてお前、実は大したことないな?」とジュニーは言うがベルニージュは気にしない。
「大丈夫なのかい? 嬢ちゃん」と行商人の女も不安そうに言う。
ベルニージュは微笑みを見せて言う。「うん。安心して待ってていいよ。それと渡し船の順番、約束だからね」
そう言うとベルニージュは蛇を追って上流へ、岸辺を駆けて行く。若者たちも後を追ってくるが、ベルニージュは気づかないふりをする。