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「あっちかあ」とベルニージュはため息混じりに呟く。
その紅色の双眸の上で眉を寄せ、濁った川に視線を向ける。濡れた鱗を艶めかせた巨大蛇が時折咳き込むような声を漏らしながら、対岸へと向かって悠々と泳いでいた。あの蛇の巣穴は対岸にあるらしい。何か別の策を考えようと、ベルニージュは背嚢を脇に持って開く。
その時、「ミグド! 射かけろ!」とジュニーが叫び命じる。
「中んねえって」と言いつつもミグドはこなれた体さばきで弦を張り詰めた。
矢は小さく鳴いて放たれる。川風を受けて揺らめきつつも弧を描き、蛇の近くの川面にあえなく沈む。体格に恵まれていないにも関わらず、あの距離が届くだけでも大したものだ、とベルニージュは感心する。
「ほらな。矢の無駄だよ」とミグドはつまらなそうに呟く。
向こう岸を睨みつけつつジュニーは言う。「良いからどんどん射かけろ。矢なんていくらでも買ってやるからよ」
「言ったな?」とミグドはジュニーに言う。「聞いたな?」とミグドはシーガスに言う。
右だ左だとジュニーは喚き、ミグドは次々に矢筒の中身を放つ。矢がどこに落ちようとシーガスはどこか嬉しそうに唸る。
三人の背後でその様子を眺めていたベルニージュは一つ思い出し、一つ思いつく。背嚢を探り、底のほうに片づけていたクオルに貰った矢を取り出す。そして忍び足で三人の若者に近づき、躊躇いなくこっそりとミグドの矢筒に矢を仕込んだ。
それから数えて三射目に放たれたクオルの矢は込められた魔法の宿命に従う。鋭い鏃は決められた道でもたどるように真っすぐに飛んで、巨大蛇の喉に突き刺さった。クオルの仕込んだ魔法のために、鏃は蛇の喉に引っかかった林檎へと導かれたのだ。
勝利の予感に三人は歓声をあげて、喜び跳ねる。しかし《勝利》は苦笑いして首を小さく振ってため息をつく。
巨大蛇は空気を漏らすような声を出しながら大いに暴れ、ユードルの川までもが怒ったかのように大きく荒れる。血は滴るがしかし絶命せず、巨大蛇は川面から鎌首をもたげ、熾火の如き怒りを秘めた鋭い瞳で此岸を睨みつけ、一つ唸ると向きを変えて泳いできた。ユードルの川までもが、その蛇に、その怒りに恐れをなして逃げるように河岸に波を寄せる。
「来るぞ来るぞ!」ジュニーは興奮しているのか腕をぶんぶんと振る。「ミグド! どんどん射かけろ!」
ミグドは何も答えずに淡々と矢を放つ。外れもし、中りもし、しかし傷つけることができない。
蛇が近づくにつれ、三人の若者は及び腰になり、今にも逃げだしそうな体勢になる。
蛇が岸へとたどり着く前に、ベルニージュはくしゃみよりも長くあくびよりも短い呪文を唱え、三羽の小さな炎を投げ掛ける。恐れ知らずの羽ばたく炎はゆらゆらと揺らめきながら泳いでくる巨大蛇に体当たりした。一羽はなすすべもなく蛇に食いつかれ、二羽は濡れた鱗に触れただけで掻き消された。少し気をそらした程度で、怯ませることもなかった。
ジュニーがちらりとベルニージュのほうを振り返り、馬鹿にしたように大袈裟に笑う。
「可愛いもんだな。下がってていいぞ。お嬢ちゃん。俺の伝説を後ろで見てな」と言って、ジュニーは剣を抜く。
剣の質は悪くない。シーガスも槍を構える。二人とも様にはなっている。どこかの自警団よりはましに見える。
ベルニージュは後ろに下がり、さらに呪文を唱えると百羽を超える炎を蛇に向けて放つ。川さえ茹る怒れる蛇はまるで意に介さないように炎を弾く。しかし何羽かの炎はまるで別の方向へ飛んで行き、木々に火をつけた。ベルニージュはさらに呪文を唱えるが、その力が何をもたらしたのか、ベルニージュ以外に知る者はいない。
三人の若者は蛇の接近よりも、旅の魔法使いの熾した火が木に引火していることに慌てる。木は次々に飛び火し、蛇の怒りにも劣らぬ力強さで燃え広がり、辺りの降雪を溶かし、瞬く間に四人を取り囲む。
「おいおいおい!」ジュニーは蛇と炎とベルニージュを交互に見る。「何してんだよ、嬢ちゃん。俺たちまで焼け死ぬだろうが」
「足引っ張るなら何もしねえでくれよ」とミグドは怒鳴る。
「後で消すから気にしないで。今はあれに集中して」とベルニージュは静かに答える。
とうとう巨大蛇が濁った波を引き連れて勢いよく上陸する。波は木々にも打ち寄せて、水蒸気を吐き出してじゅうと鳴るが移り火を消すには至らない。
蛇は鎌首をもたげ、ユビスよりもはるかに高いところから四人を見下ろす。巨木のような太さの胴体をくねらせると鱗がじゃらじゃらと鳴る。人間の腕のような太さの舌を出し入れするだけで、鞭の振るわれるような風切り音が聞こえる。古き世よりの人間の敵は机の上の皿を品定めするように視線を巡らせている。
取り囲む炎の輝きを受け、若者たちの影が伸びて無数の蛇のように揺らめくが、ベルニージュが次々に炎を放つのですぐに消えてしまう。そして炎もまた蛇を焼くことなく消える。
蛇が最初に狙いを定めたのはジュニーだった。トバール人の短剣のような牙の並ぶ大口を開け、鋭く唸る鞭のように飛び掛かるが、ジュニーは羽のようにひらりと避けて剣を浴びせかける。白刃がまっすぐに蛇の首に振り下ろされ、鋼の打ちあうような音が響くが、鱗を少しばかり傷つけるだけで肉までは届かない。
すぐさま河の中から尾が繰り出され、巨体のシーガスを跳ね飛ばすが、シーガスは上手く転がり、力を逃す。同時に濁った水を若者たちに浴びせかけたが、尾に捉えられた者はいなかった。ミグドには気を回すこともできないようだ。
蛇の撒いた大量の水で火のついていた木がさらに水蒸気を放つ。しかしやはりベルニージュの火は消えず、さらに燃え上がり、もはや人の出入りはできない。
二度、蛇の殺意を掻い潜ったことで自信を深めたのか、若者たちは秘められた勇気を奮い、次々に剣を槍を矢を繰り出す。しかしどれも鱗を貫くには至らない。
火の手が上がってからの蛇の狙いは不確かだが、その長く大きな体を滅茶苦茶にくねらせるだけでも若者たちの体を押し倒し、弾き飛ばすのには十分だった。シーガスさえ圧し弾き、ミグドさえ捉える。ジュニーはさらに二度三度と蛇に刃を浴びせるが鱗はびくともしない。
これほど鱗が硬いとはベルニージュも思わなかった。逆に、思いのほかクオルの矢の性能が高いことを知る。
決め手に欠けた若者たちは防戦一方になる。暴れる蛇から身を守るだけで精いっぱいのようだった。一度は蛇を傷つけたミグドは巨大蛇に何度も射かけるが、全て弾かれる。
「くそ……。やっぱりまぐれだったんだ」と言って肩を落とすミグドにベルニージュは少し申し訳ない気持ちになった。
ベルニージュは大きく息を吸って言う。「鱗を狙っても仕方ないでしょ!」
すぐさま「そうか!」と言ったのは巨体の槍使いシーガスだ。
シーガスは槍を構え、蛇の頭が近づくと唸るような叫びとともに穂先を突き出す。穂先は飛ぶように伸びて巨大蛇の口の中に入るが、喉に刺さる前に蛇に噛みつかれて止まる。押すことも引くこともできなくなるが、シーガスもまた決して槍を手放さない。振り回されそうになるシーガスをジュニーとミグドが抑える。
三人の若者と巨大蛇が一瞬の膠着状態になったその時、「そこだ!」と言ってジュニーが飛び出して、巨大蛇の首に飛び掛かり、唯一の矢傷に剣を刺し通した。
巨大蛇はとうとう恐怖を感じたようで、暴れに暴れ、ジュニーを弾き飛ばす。シーガスもまた槍を手放し、距離を取って事の成り行きを見守る。巨大蛇はもはや三人の若者に目もくれない。燃える木々に照らされて、剣を深く突き立てられた首から呪わしい血を撒き散らし、のたうち、とうとう動かなくなった。
それを確認するとベルニージュは言葉でもって全ての炎を掻き消す。静まり返る河岸で、三人の若者の安心したような勝ち誇ったような笑い声が響いた。