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相沢蒼依
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気が付くと地面に横たえられていた。
この感じ、あの洞窟以来だ。二回目……。
わたしは仰向きに寝転んだまま、首を回して横を見た。
太陽が見えるけど、霧が立ち込め景色は薄暗い。
確か坤鬼舎の背中にそびえる山で戦っていたはず。だけどあの豊かな緑はいまはなく、木々は倒れ草が剥がされ赤土がむき出しで穴ぼこだらけだった。
気を失う前の記憶より、遥かにひどい。ほとんど焼野原だ。
「気が付いたか」
よく通る声が聞こえた。
頭の方に視線を移すと、晴明さまが涼やかに笑みをこぼしていた。
「ご無事で……」
途中まで言って、胸が苦しくなり息が続かなかった。ひどく腹が減ったときのように、体の中に灯る火が消えた感じ。
「……よかった……」
晴明さまは深く息をつくと、その五本の指をわたしの手に絡ませるように握った。柔らかいものを持つように、そっと。
「心配した。お前が起きなければどうしようかと」
「もったいない、お言葉、です……」
「……お前が帰るのを、ずっと待っていた。頼むからもう、俺をこんな気持ちにさせないでくれ」
晴明さまは俯き、握り込んだわたしの手をご自分の額に当てた。ああ、この人はこんな顔もするんだなと思うと、気を失ったことをお詫びして、そして抱き締めたい衝動に駆られた。
こんな時間もいいな。務めを果たせたんだな。
手から感じる晴明さまの体温が、そう教えてくれた気がした。こんなわたしでも、ちゃんとお役を果たせるんだと、誇らしい気持ちも持てた。でも。
「ぜんぜん良くない……!」
怒りを孕む霞姉さまの声が耳に届く。
黒目だけを動かすと、彼女は倒れた木に腰かけ、噛み付くような目でこっちを睨んでいた。いつも叱られるときとは違う、本気で怒っている眼差し。
「霞姉さ、ま……。ど、して……」
「いまはよせ、霞」
「晴明さまのお言葉でも承服できません。こんなとんでもないことをして……。夜火、あんた本当になにも覚えてないの?」
霞姉さまは晴明さまの諫めにも従わない。苛立ちを露わにする彼女の言葉に、わたしは頷いて意志を示した。
「なら教えてあげる。あんたはさっき、そこで晴明さまを殺しかけてた」
突き放すように彼女は言った。語調はまるで鞭打つようで、言われた瞬間は話の内容がよく分からなかった。
「わた、しが……晴明さまを……?」
「違う。我を失った夜火を、私が不用意に止めたからだ」
「違いませんっ! 晴明さまを何度も殴って、首をその手で締め上げて! 止めた私たちも、こ、殺されかけてぇ……!」
霞姉さまが声を荒げると、晴明さまが少し目を落とした。
「それは俺が謝る。夜火を刺激した俺が悪い」
どうして、晴明さまが謝るの……?
疑問は少しの間を置いて、だんだんと状況を私の頭に染み込ませてきた。染み込んでくるけど、その理解を、わたしは必死に拒んだ。
違う。違わないかもしれないけど、違うの。
だってそんなはずはないから。たとえ意識がなくたって、この世のなにがどうなっていたって、晴明さまを手にかけようとするなんて、そんなはずは……。
「――本当に、わたし、が……?」
「そうよ、あんたよ! べらぼうに髪を伸ばして! 見境なく暴れ回って! 穢悪はなんとかなったけど、みんなあんたに殺されるとこだった! 命恋がいなきゃ、晴明さまは本当に死んでたんだからね!」
「そんな……」
愛しい人を、大事な人たちを、かけがえのない居場所を。わたしが?
信じられない気持ちで自分の手を見る。手は答える代わりに血塗れ、爪には肉片が食い込んでいた。それを目にした瞬間に、なにかをひどく殴った手応えも蘇る。
大事なものが壊れた音がした。
言いようのない後悔と絶望が胸を苛む。あのとき、心の裏側にいた『なにか』に身を堕としてしまったから。
――わたしが……。
「霞、もういい」
「しかし夜っ、火は……! 晴明さまを弑しようと……!」
「話は坤鬼舎でだ。結果として皆が無事だ。あとは集まって話そう」
晴明さまはわたしの手を離すと立ち上がり、霞姉さまの肩に手を置いた。
霞姉さまは俯いて従ったけれど、けど怒りはひしひしと感じられて、そしてそれは当たり前だとわたしも思えた。
無事だったのはただの結果だ。
晴明さまはかばってくれただけ。現実は彼をお守りすべき者が、逆にその手にかけようとしたのだから……。
「夜火」
くちびるを噛んでいると、亜鐘姉さまが手に手を重ねてくれた。
「……辛いと思うけど、いまは考えないで。穢悪を祓ったら、坤鬼舎までわたしが運んであげる。今日は一緒に寝ましょうね」
「祓ったら……?」
わたしは亜鐘姉さまを見る。
「え、穢悪って、あの、あの魚、ですよね? まだ、まだ調伏できて、ないんですか?」
「……うん。でも、もう怨魄しか残ってないわ。命恋姉さまが……」
言われて亜鐘姉さまの視線を追うと、歩いて五歩ほどのめくれた土の上に、命恋姉さまがじっと屈み込んでいた。虚ろな眼差しで、自分の足元を見つめている。
「大丈夫? ヨル」
命恋姉さまはわたしの視線に気が付くと、力ない笑みでこちらを向いた。でも表情とは裏腹に、金砕棒をぎゅっと握る手は悲壮ななにかを感じさせる。
「なにして……、るんですか?」
「穢悪の怨魄をね、砕こうと思って。だけどなかなか決心が付かないの。たった一日だけど、情って移るもんねえ」
「情……?」
「ん……。怨魄がね、この子だったのよね」
命恋姉さまは視線で足元を指し示す。少しだけ頭を持ち上げてわたしも見て、
「ウソ……?」
自分の目を疑った。命恋姉さまの足元にいたのは、坤鬼舎で拾った赤ん坊だった。 あの笑わぬ坊が白く蝋のように固まり、穢悪の怨魄としてそこにいた。
「この子が穢悪だったわ、ヨル」
笑みを涙で崩し、命恋姉さまは繰り返す。
「この、この子が穢悪だった」
「…………」
あのときわたしが穢悪に向けて燃やした殺意や、あの魚が姉さまたちを殺そうとしていたところを思い出すと、泥水が混じったように思いがぐちゃぐちゃになった。
抑えきれず感情は涙となり、耳元へ熱く伝う。誰かが洟をすする音も聞こえた。なにもかもが悪い夢を見ているみたいだった。わたしの居場所が、昨日までは赤ん坊に見ていた希望が、一気に瓦解していく。
「もうやっておしまい、命恋」
逆方向から、抑揚のない声がした。なんとか首を回すと、陸燈姉さまがそこにいた。傍らには目をつぶったままの晴明さまもいる。
「また魚に戻られたらコトだよ。気持ちは分かるけど、あたしらの務めだからね」
「――はい」
命恋姉さまが返事をしてから数瞬置いて、彼女が金砕棒を振り上げた気配を感じた。わたしは陸燈姉さまの方を向いたまま、目をつぶりくちびるを噛んで、心の中で誰へ向けているのか分からない謝罪を繰り返した。
ごめんごめんごめんごめんごめん。
「ごめんね。婆っちゃを許して」
命恋姉さまの声が聞こえた。
するとそれに答えるように、昨日一言だけ聞いたあの赤ん坊のあの声が、今度ははっきりとこの耳に届けられる。
わたしはこの声を、言葉を、きっと生涯忘れないだろう。
「――生きたい……」