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千紘が家のドアを開けると、玄関には千草の靴があって、凪のいた痕跡は消えていた。
日常に戻っただけなのに、妙に切なくてまたぶわっと涙が溢れた。
凪の前では極力我慢していたからか、今度はとめどなく溢れた。その場に立っていられなくなり、靴も脱がずに玄関にしゃがみ込んだ。
膝を抱えて顔を伏せた。スボンに涙が染み込んで、一瞬温かくなったかと思うと次の瞬間から冷えていった。
玄関のドアが開く音に気付いた千草が中からやってきて、千紘の姿を見た途端慌てて駆け寄った。
小さい頃は泣き虫だった千紘。よく千草の後ろをついて回っていた。弟が同性愛者だと気付いたのは中学生の頃だった。
自分は小学校高学年の頃には異性に興味津々で、性的なものにも興奮を覚えた。だから当然千紘もそうだろうとからかい半分で色々教えてやったが、千紘はあまり興味なさそうだった。
思春期特有の反抗期かとも思ったが、何かがおかしいと気付いた時には、同性の同級生に熱っぽい視線を向けていた。
誰にも相談できずにいた千紘に、初めて寄り添って話を聞いてやったのが千草だった。
千草は驚いたが、可愛い弟を軽蔑するだなんてとてもできなかった。それどころか、他者から蔑んだ目で見られることが許せなかった。
思春期ではあまり素行がいいとは言えなかった千草は、派手な仲間とつるんでいたが千紘にはいつも優しかった。
不思議と千草と一緒にいる連中も千紘が同性愛者だと知ってもからかうことはなかった。
むしろ、偏見な目を向けられたら千草とその仲間が守ってやっていたくらいだ。そうやって昔から千紘のことを守ってきたのだ。
同性愛者でもなく、恋愛感情もないが千紘のその美しい容姿にだけ興味を示してきた男達も一掃してやった。
遊んで捨てた男も、別れた後に千草が灸を据えてやった。だから今回も俺が守る。そう思っていたのに、千紘は玄関に蹲ったまま鼻をすする音を響かせていた。
千草は千紘の背中を優しく撫でた。千紘が泣いているところは久しぶりに見た気がした。
大人になってからは「俺もいい大人なんだから、兄ちゃんに守ってもらわなくても大丈夫だよ」なんて言って笑っていたから。
恋愛に関しては2人の問題だから、2人で解決できる。そう言って千草の心配を断ったこともあった。
けれど今回ばかりはあまりにも千紘が辛そうで、千草は憤りを感じた。
「千紘……アイツになんか言われたの?」
低い声で千草が問えば、千紘は膝に顔を伏せたまま首を左右に振った。
「じゃあ、なんで……」
「……」
千紘は、目を合わせてくれなかった凪の顔を鮮明に思い出す。何か言われたどころか、また連絡するという言葉以外、凪は何も教えてくれなかった。
あんなふうに怯えた目で自分のことを見てほしくなかった。千紘は千草の言葉になにも答えられなかった。
「大橋凪とかいったよね。……俺が探してとっちめてやるから」
怒りの頂点に達した千草が靴を履いて玄関を出ようとする。それに気付いた千紘が咄嗟に千草の服の裾を掴んだ。
「待っ……」
「止めるなよ! 千紘のこと泣かせたヤツなんか庇うな!」
「違っ……泣かせたの、俺の方……」
涙でぐちゃぐちゃの顔で千紘が声を絞るようにして言った。千紘としても本当は兄にこんなことは知られたくなかった。
凪以外の男にあんなふうに強引に迫ったことなどなかったし、千草が知るのはいつも一方的に千紘が傷付けられた時ばかりだった。
千紘の片想いで終わったり、千紘が好きになった男性が運良く千紘のことを好きだったり。上手くいく時もあれば、いかない時もある。それは男女でも同じ。
千紘が良識の範囲内で恋愛している内は相手に非があって、千草が怒ってもそれを黙って見ていた。むしろ味方がいてくれて嬉しかった。
しかし凪に関してだけは、今までとはわけが違った。