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【前説】
この物語は新米コーチ 明浦路司(師)とその司をゴリ押しで師にした夜鷹純(弟子)の弟師if話である。
去り際に念を押すように『また今夜ね』と言って去っていった夜鷹純を呆然と見送ってから、司はまず恩師である高峰匠に電話を掛けた。
『おう、司か。どうした?』
久しぶりに話をした弟子に高峰は呑気にそう言ってくる。
どうしたもこうしたもない。
とんでもない『闇の者』を送り込んできた張本人のくせに。
「匠先生!どういうことですか!何を勝手に進めてるんですか⁈オレの残りの人生はいのりさんに捧げようとしてたのを匠先生は知っているでしょ⁈」
一息で司は捲し立てた。
『あぁ、アイツそっちに行ったか』
「…言うだけ言って(何が楽しいのか俺の胸を散々揉んで)今やっと帰りました…」
『緊急避難だ。俺の命の危機だったんでな』
高峰はあっさり言い切った。
司は『俺の師匠、弟子を売りやがった』と声には出さずに内心つぶやく。
『でもな。純にせがまれたとはいえお前のことを話したのはお前自身のためにもなると思ったのは確かだ。…お前、まだ夜のバイト続けてやがるだろ。いいかげんそういうのは辞めさせたいと加護さんからも言われてんだよ』
司の知らない所でおじさん達は策を練っていたようだ。
『純ならうってつけだ。アイツの家は金策なんか考えなくていい裕福な環境下にある。しかも、アイツ自身に既にパトロンが付き始めているから金払いは良い。使えるぞ。司、お前もそろそろ使えるものは使う事に慣れろ。最もお前をコーチにするか否かを最終的に決めるのは純であってお前じゃないがな。今夜だろう?頑張れよ』
高峰は『忙しいから切るぞ』と言って通話を一方的に切った。
「…とんでもない大ごとになってしまった…」
司は頭を抱えてしゃがみ込んだ後に、昼休み中の顛末を高峰瞳に伝えた。
「…ゴメンね司くん。うちの父が迷惑を掛けてかけて。…お父さん、私から叱っておくから」
瞳の背後に怒りのオーラが見えた気がした。
「…気が重い…夜鷹純だぞ?…日本フィギュアスケート界隈がその未来を夢見ている小学生だぞ?…皆んな知ってる子だぞ?…そこら辺の芸能人より有名人だぞ?…俺なんかに務まるわけがない…」
逃げたら許さないと言われていたが、当初司は逃げるつもりだった。
夜鷹純が『その程度の男だったのだ』と諦めてくれればそれで良いとさえ思っていた。
しかし改めて直近開催された大会での演技中の夜鷹の映像を休憩中に観ていて、司はその演技にのめり込んで見入ってしまった。
時間が経つのも忘れて見入った結果、今に至る。
建屋の前で待つこと暫し、黒塗りの車が司の前に静かに停車した。
運転席から運転手が降りてきて、司に一礼の後、後部座席の扉を両手で丁寧に開いた。
後部座席には子供が一人座っている。
「逃げないでよく待っていたね」
『いい子だ』と言いたげに夜鷹は少し笑みを見せながら言い、車の中へと誘うように司に手を差し出してくる。
どちらが年上なのかを悩むくらい冷静で大人びた態度を見せる夜鷹の手に導かれるように、司は車内に潜り込んだ。
「いつものリンクに」
「畏まりました」
一言で行き先を告げられた運転手は心得ているようで車はすぐに静かに動き始める。
高級車のシートは司には慣れていないものであったが、隣に座っている夜鷹にとっては日常であるようだった。
1日頑張った仕事の後だ。
通常の状態であれば油断をしたら眠ってしまいそうな心地良い空間であったが、今の司にとっては針の筵のようにさえ感じる。
「どうするか、答えは決めた?」
チラリと自分の隣を見ると夜鷹は正面を向いたままだった。
司は答えは返さなかったが、本心は恐らくもう既に決まっていた。
『あの演技を』
『夜鷹純の演技を目の前で観てみたい』
『あの完成された美しい演技を』
それは純粋な興味と憧れだった。
『あんな風に踊れたら』
『あんな風にジャンプが飛べたら』
どんなに楽しいだろうか。
『せめてこの子と同じくらいの年齢の時にスケートを始めていられたら、俺もこんな風になれたのだろうか』
まだ子供とは思えないその演技に司は既に取り憑かれていた。
『これから更に上手くなったらどれ程の化け物になるんだろう。俺だけじゃなく、きっと誰をも魅了する選手になるんだろうな』
今はまだ序章に過ぎない。
コーチになればその成長過程を直ぐ傍で観ることが出来る。
夜鷹の問いには答えずに口をつぐんでいた司の手にまだ少し小さな夜鷹の手が触れた。
少し冷やっとする手だった。
「スケートが好き?」
「…好きです」
まるで恋焦がれるような感情が司にはある。
暫しの沈黙の後に答えた司に満足したのか、夜鷹は『僕も好きだよ』と答えて司の手に触れたその手の力を少しだけ込めた。
「僕はスケートさえあれば他には何も要らない」
まだ小学生の子供が言うには大人過ぎる重さがそこにはあった。
二人以外誰もいない静かな夜のリンクに夜鷹は降り立つ。
「今夜は貸切だ。観客は明浦路司、貴方だけだよ。…貴方に良い夜を」
振り向きざまに言ってから夜鷹はリンクの中央に滑って行った。
何の曲かは知らせずに夜鷹から曲をかけるよう指示をされている。
「…まさか、新しいプログラムなのか?」
リンク中央で背を見せていた夜鷹が振り返り司に『かけて』と相槌を打ち、司は言われるがままに曲をかけた。
曲に乗って夜鷹が演技を始める。
「…これは…魔笛?…」
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの歌劇『魔笛』の第二幕に登場する有名なアリアだった。
母親である夜の女王が我が子(娘)にナイフを手渡して宿敵である男を討ち滅ぼすよう命じる場面。
復讐に身も心も焼き尽くされ、夜の女王は死と絶望に取り憑かれている。
夜の女王は宿敵・ザラストロにこのナイフで死の苦しみを与えなければお前は最早私の娘ではないと、絶縁状を叩きつけるように娘に迫る。
毒親もここまで来ると恐怖でしかない。
まるで娘を洗脳でもするように迫る夜の女王からは執念さえ感じる。
夜鷹は演技中、何度も司に視線を向けてきた。
まるで『僕のコーチになれないと言うのなら今すぐにお前から大切なスケートを取り上げてやる』と言わんばかりの精神的な圧を司に加えてきていた。
「あの男をお前の手で殺せないというのであれば、お前はもう私の娘でもなんでもない。母娘という親子の情も、絆もなく、勘当し、見捨て、その絆は永遠に粉砕されて二度と元には戻らない。そうされたくないのであれば、今すぐにこのナイフであの憎き男を葬って来い」
『まだ足りない?まだ僕のコーチを引き受けると誓えないの?それならもう貴方は要らない。これからは何処かで出逢っても会ったこともない他人だし、それから先もずっと同様だ。貴方は小さな箱の中にいる僕だけを遠くから一人寂しく観ていればいい。あの時こうしていればと、また昔のように一人寂しく孤独に嘆くがいい』
夜の女王は我が望みを聞くよう、復讐の神に祈りを捧げ、娘と袂を分つように豪華な衣装を翻して共を引き連れて去っていく。
そして現実の夜鷹も背後の憂いを振り払い落とすかのように司にその背を向けた。
「………このママ…今まで見た夜の女王の中で一番怖いっ!」
司は素晴らしい演技を観たことによる感激と、夜鷹に見限られた場合の消失感を想像し、両手で顔を覆って泣いた。
つづく。