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と、程なくしてまたブブッとバイブ鳴って、『もしかしてスマホ置き去り?』と今更気付きましたかね、という文言が表示されて。
日和美が「はいその通りですよー」と嘘の言い訳をポツンとつぶやいたところで『会いたかったけど俺も仕事押してるからとりあえず帰る』と届いた時には心底ホッとした。
それと同時、(ねぇ信武さん。忙しいって本当? 綺麗なポニーテールさんと逢い引きする時間はあったのに? 私に会いにきてくれたのだって、後ろめたかったからなんじゃないの?)とか卑屈なことを思って……。
そんな自分が心底嫌でキリリと胃が締め付けられるみたいに痛んだ。
***
襖には鍵がかからない。
だがしかし――。
***
信武は自宅マンションでシャワーを済ませて部屋着にもなるスウェット上下に着替えて深夜過ぎ、あくびをこらえながら日和美のアパートへ帰ってきた。
約束通り扉にはドアチェーンが掛けられていなかったので、合鍵で難なく部屋に侵入する。
道すがら、日和美の部屋の窓を見上げて分かっていたけれど、彼女はもう寝ているらしい。
それで、鍵を開けるのもドアの開け閉めをするのも音を立てないよう極力気を遣った信武だ。
部屋のシーリングライトは消されていたけれど、夜中に信武が帰って来ることに対しての配慮だろうか。
台所のシステムキッチンのライトが付けられていて、真っ暗闇にはなっていなかった。
(こういうトコ。ますます惚れるだろーが)
日和美が自分のことを慮ってくれていると実感できるだけで嬉しくてたまらない信武だ。
今日は昼過ぎ。昼食がてら日和美の書店近くの喫茶店で人と会った信武だったけれど、その流れで愛する日和美の顔を見たいと思ったのだが――。
***
店内をくまなく探したつもりだったのに、昼間結局日和美はどこにも見当たらなくて。
棚の間をあちこちうろついては人気のない広めの通路で立ち止まって、何度か日和美宛にメッセージを飛ばしてみたけれど反応なし。
既読にもならないから(メッセージ自体に気付いてねぇのかも知んねぇな)と思って。
(店内にいねぇってことは休憩中だと思ったんだがな。違うのかよ?)
案外裏手の方で、何か作業をしていたりするのかも知れない。
(くそっ。そろそろ時間切れか)
信武自身、それほど時間があるわけでもないのに折角近くまで来たし……と思って要らぬ寄り道をしてしまったのだ。
正直そんなに時間にゆとりはない。
顔が見られなかったのは残念だが、そろそろ帰るかと思っていたら、「もしかして……立神先生でいらっしゃいますか?」と斜め横手から声を掛けられた。
伊達眼鏡と帽子で素性はバレにくくしていたつもりだったけれど、日和美の職場――『三つ葉書店学園町店』では近々サイン会をすることになっている。
信武の顔を見知った店員がいても不思議ではない。
視線を振り向ければ案の定、眼鏡越し。信武が見下ろした視線の先に、サイン会の担当窓口になってくれている女性店員が立っていた。
普段のやり取りは大半を懇意にしている編集に任せている信武だったけれど、一度だけ。
まだ日和美がここへ勤め始める前、ここで眼前の彼女と顔合わせをしたことがある。
名前は確か――。
「ああ、多賀谷さん。お久しぶりです」
即座に不破モードにシフトしてニコッと微笑んで見せたら、目の前の店員がポッと頬を赤く染めたのが分かった。
顔合わせの際、初めましてをしたと同時、半ば食い気味に『私、立神信武先生の大ファンなんです!』と熱弁してくれた彼女は、確かに信武の著書をしっかりと読み込んでくれている、コアなファンだった。
まさに、サイン会担当にふさわしい人選だろう。
というか、今回のサイン会自体、彼女の熱意があってこそ実現したのだと、編集から聞かされている信武だ。
サラサラの黒髪を後ろでバレッタ留めした多賀谷は、清潔感にあふれていたし、一般的に言えば美人の部類に入るだろう。
だが、信武にとって、日和美以外はその他大勢に過ぎないのだ。
例え家で伸びきった学生時代のジャージ上下を部屋着にしていようとも、中身が日和美ならば可愛く見える自信があるのだから不思議だ。
(ま、実際見せてもらったことはねぇんだけどな)
日和美は信武の前ではとても綺麗なパジャマを着ている。あれは恐らく不破と暮らすようになって新調したものに違いない。
(くっそ、惜しいわ)
いつか絶対ありのままの日和美を自分の前にさらけ出させてやる!と目論んでいるとか言ったら、彼女はおびえるだろうか。
昔、日和美からだらけた日々の話を照れ隠しみたいに聞かされて、そういうヒロインを主役にするのも悪くねぇなと思ったのを信武は鮮明に覚えている。
そんな日和美のだらりとした姿を見てみてぇなと無意識に思って、思わず苦笑したことも。
ただ、その時に書いていたものにジャージを着たような女の子が出てくる設定がなくて、何年間も保留のままできてしまった。
だが、近々新作でやっと実現できる予定だ。
「このヒロインはお前がモデルなんだぜ?」とか教えたら、日和美はどんな反応をするだろう。
考えただけで彼女の反応が楽しみでぞくぞくする。
今、マンションで、缶詰め状態で仕事をさせられていてもモチベーションが保てているのは、まさにそのためだ。
「あの、立神センセ?」
長い間物思いに耽り過ぎていたらしい。
媚びるように小首を傾げられて、信武はまだ眼前に多賀谷がいたんだっけと思い出した。
何となく(面倒くせぇな)と思ったのはおくびにも出さず、頬を上気させた多賀谷に、心の中で小さく吐息を落とす。
(そういやぁ、前に対面した時もこんなだったか)
信武にとってこういうことは割と日常茶飯事なので、あからさまに異性として見られたからと言って、何も感じたりはしない。
「すみません。このところ執筆に追われて寝不足だったものですから、少しぼんやりしてしまいました」
わざと眉根を寄せて同情を誘うような表情を作って淡く微笑めば、多賀谷が「まぁ! それは大変です」と心配そうな顔をする。
その上で、なのに何故いま、出歩いているんだろう?と至極まともな問いにぶち当たったらしい。
「あの……今日はどうなさったんですか? もしかして……サイン会のことで何か気になることでも?」
どこかつけ入る隙を探っているような、情欲に潤んだ瞳で、多賀谷からソワソワと問い掛けられた信武は、この様子だと下手に日和美の名前を出すのはまずいなと瞬時に思いをめぐらせて。
恋人の顔を見に来ただけです、と言う言葉はグッと飲み込むことにした。
そう言うことはないと願いたいが、自分のせいで日和美に対する先輩店員らからの風当たりが変に強くなるリスクを冒すのは、極力避けたいではないか。
先程喫茶店で手渡された紙袋をわざとらしく持ち替えると、「今日は全くのプライベートです」と一線を引く。
作家にはよくあることだ。
煮詰まったりしんどくなった時にふらりと散歩に出たりすることは――。
立神フリークだと熱弁した多賀谷なら、これで察してくれるんじゃないだろうか。
そんな淡い期待を込めて告げたセリフだったのだけれど。
「あ、それはお邪魔しちゃ申し訳ないですね。――もし何かお困りのことがありましたら遠慮なくお声かけ下さい」
幸い多賀谷は分をわきまえた人間だったから、あっさり引き下がってくれた。