下手な相手だと信武がやんわり〝線引き〟してもズカズカと踏み込んでくる。
そうなると〝素〟の口汚い自分を出してしまいそうになって非常によろしくないので、多賀谷のようにスッと引き下がってくれる人間は物凄く好感が持てる。
「有難うございます。サイン会、多賀谷さんのような素敵な女性に担当して頂けて、本当に良かったです。では――」
そういう相手には少しだけリップサービスをしてやっても良い。
ニコッと極上の王子様スマイルを投げかけると、信武は胸の所に片手を当てて恭しく一礼して、クルリと踵を返した。
***
(ん……?)
帰宅してすぐ。
日和美が眠る寝室へ――というより寝床へ潜り込もうと目論んだ信武だったけれど。
グッと手を掛けた襖はびくともしなくて。
薄暗がりの中、目の前に何か貼り紙がされているのが見えた。
スマートフォンのライトを灯して何が書いてあるのか照らしてみれば――。
『信武さんへ。
お帰りなさい。
お仕事お疲れ様でした。
実は体調があまりかんばしくないので、しばらくの間、別々に眠らせて頂きたいと思います。
信武さんと一緒だと緊張して寝不足気味になってしまうのも良くないみたいです。
勝手を言ってごめんなさい。
信武さんのお布団はリビングに置いてありす。
おやすみなさい。
日和美
追伸
しばらくの間、ご自宅で眠られるのもありかと思うのですが、いかがでしょう?』
読んだ瞬間、思わず「何だよ、それ」と不満の声が漏れていた。
とりあえず日和美の顔を見ようと頑張ってみたけれど、襖はガタガタするばかりで、開きそうにない。
この、何かが引っかかっているような感じ。おそらくあちら側につっかえ棒でもしてあるのだろう。
「くそっ!」
襖には今時のドア扉みたいに鍵なんて掛けられないと抜かっていた。
よもやそんな旧式な方法で寝室から締め出されてしまうだなんて、思いもしなかった信武だ。
今自分が手を掛けている目の前の襖が両引き戸構造ならまだしも、残念ながら壁に対して襖が一枚――いわゆる半間分しかない片引き戸構造。
あちら側に棒か何かがつっかえてある限り、どう頑張っても開けることは困難だ。
寝不足も絡んで体調が悪いと明言されている以上、扉の外で「とりあえず開けろよ!」とごねるわけにもいかなくて、信武は大きな溜め息を落とさずにはいられなかった。
(顔見てぇって思ってんの、俺だけかよ)
よくよく考えてみれば、昼間のメッセージも、いつの間にか既読にはなっていたけれど、返信もないままに既読スルーだ。
忙しさにかまけて深く考えなかった信武だったけれど、(何かおかしいんじゃねぇか?)とさすがに気が付いて。
(俺、日和美を怒らせるようなこと、何かした?)
そう思わずにはいられなかった――。
***
信武が帰って来るよりはるかに早めに風呂を済ませた日和美は、早々に寝室へ籠った。
合鍵を渡している以上、信武が家に入ってくるのを阻止することは困難だ。
もちろんチェーンロックを掛ければ、鍵が開けられても中へ入ってくることは難しいかも知れないけれど、恐らくは疲れて帰ってくるであろう信武のことを思うと、家の外に締め出すのには抵抗があって。
結局迷った末、日和美は信武用の布団をリビングに運び出すと、不破がそうしていたようにソファーやローテーブルを部屋の片隅へ押しやって、彼用の寝床をこしらえた。
そのまま風呂場へ行くと、脱衣所入り口に暖簾を掛けるために使っていた伸縮可能なつっかえ棒を外して寝室に戻った。
寝室入り口の扉へ、取ってきたつっかえ棒を渡しながら思う。
(ホントは信武さんにどういうことか聞くのが一番大事だってことは分かってる……)
分かってはいるけれど、まだちょっと気持ちの整理がつかないから。
もし問い詰めて、あちらが本命で自分は浮気だと明言されたら耐えられる自信がなかった。
不破のことだけを大好きな状態の時にそうされていたならばまだ大丈夫だった気もするけれど、日和美はもう、不破とは違う、だけどその実、不器用過ぎるぐらい優しい信武の愛情を知ってしまったから。
(生理痛でしんどい時にあんなに優しくされたら……忘れられなくなったって仕方ないじゃない)
せめて生理が終わって……。
この、イライラムカムカのブルー期が過ぎ去ってからなら、何を聞かされてもまだ堪えられる気がした。
そう言えば今日は昼食も食べ損ねたけれど、何だか夕飯も食べる気になれなくて、水分くらいしか口にしていない日和美だ。
そのくせ未だにそんなにお腹が空いていないことに自分自身驚いて。
(私、ストレスで痩せちゃえるタイプなのかも……)
今までメンタル面でこんなに負荷を感じたことがなかったから知らなかった。
母親を亡くしたときは幼な過ぎて記憶にないし、数人いた彼氏と別れた時も、不思議とそんなにショックじゃなかった。
あれは今思えば、自分にとってその程度の人たちだったということなんだろう。
信武のことがあって、日和美は今更のようにそんな当たり前のことを思い知らされた。
今までの日和美なら、何があっても萌風もふ先生の作品さえ読めば元気になれたのに。
今はそんな気分にもなれない。
でも――。
日和美はふと思い立って、棚から『犬姫』を取り出した。
『犬だと思ったら姫でした!?~俺の愛犬が最高にイケイケで可愛すぎる件について~』、というタイトルを見るとはなしに目で追って、相変わらずあらすじ張りに長いタイトルだなと思って。
パラパラとページをめくって裏表紙見返し部分の著者の写真を見た日和美は思わず息を呑んだ。
――えっ。ちょっと待って……。この人……。
著者近影は和装で、市松人形みたいにさらりと髪を下ろしているから気付かなかった。
あのポニーテールに薄桃色のワンピース姿の彼女。
今日信武と一緒にいたのは、萌風もふ先生だったのだ。
だからあの時、彼女を見て既視感を感じたのだと今更のように思い至って。
そうだと気が付いてみれば、あれは日和美が敬愛してやまない、萌風もふ先生に違いなかった。