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その日は朝から体調が悪かった。
理由はわかっている。
『今日』だから。
本当は仕事を休んで、ベッドの中でその日が終わるのを耐えたかった。
そうしていれば、こんなことにはならなかったのに。
今更、遅い。
朝一で出席した部内会議が長引き、ランチを食べる間もなく依頼主との打ち合わせ、ようやくデスクに戻ると部下から問題の報告を受け、対処し、コーヒーを飲む間もなく企画会議へと向かった。
どうせ休めないのだからと早めに家を出て、会社近くのカフェで無理にでもサンドイッチとサラダを食べておいて良かった。
そうでなければ、間違いなく企画会議の途中で意識を失っていた。それくらい、忙しくて、体調が悪かった。
「お前、大丈夫か?」
会議室のドアノブに手を掛けた時、そう言われて振り返った。
槇田部長。
「朝から調子悪そうだったろ」
驚いた。
体調が悪いことを悟られないように気を付けていたし、実際誰にも気づかれなかった。
「大丈夫です」
私は作り笑顔で返事をして、重いドアノブを押した。
手が震える。
「どこが大丈夫なんだよ」
三秒前まで部屋の一番遠い場所に座っていた部長が、すぐ後ろに立っていた。
「送るから支度しとけ」
「え……?」
息がかかるほどの距離に、振り向けない。
「でも、企画書のチェックが——」
「そんなフラフラで任せられるか。いいから帰り支度しとけ。いいな」
部長が軽々とドアを開け、私はふらりと足を踏み出した。
イベント企画部はビルの五階にあり、パーテーションで四つに区切られている。その一つが、企画課。更にチーム毎にまとまって机を並べている。
私のデスクは窓に背を向け、二つのチームを見渡せる位置にあった。
「お疲れさま」
課に残っているのは四人。一人は私のチームのリーダーで、あとの三人はもう一方のチームメンバー。
「お疲れさまです」
待ってましたと言わんばかりに、チームリーダーの沖くんがファイルを持って立ち上がった。
「修正したフライヤーです」
沖くんは少しバツが悪そうにファイルを差し出し、私はそれを受け取った。薄いファイルにはA4サイズの紙が一枚挟まっていた。
「あの、確認が足りなくてすみませんでした!」
終業時間後の静かなフロアに、彼の声は響いた。
「主任にまで頭を下げさせてしまって……」
昼間、私は彼からフライヤーの原稿に間違いがあったことを知らされ、印刷所にストップをかけ、依頼主にフライヤーの納期が遅れることを謝罪した。
沖くんは真面目で仕事振りに問題はない。ただ、時間に追われると焦ってミスを犯しやすい。今回も、原稿の最終チェックが入稿の三十分前でなければ、間違いに気づいたはず。
「早く気づいて良かったわ。印刷も試し刷りで止められたし、先方も半分が一日遅れるくらいなら問題ないと仰っていたし」
「ですが……」
沖くんは叱られた子供のように、頭をもたげた。
「気にしないでとは言わないわ。けど、いつまでも落ち込んでいては他のミスを招いてしまうから、同じ間違いのないように気を付けて」
「はい」
「原稿は私が明日の朝一で届けるから。今日は帰って休んで?」
「はい。お疲れさまでした」と言って、沖くんがペコリと頭を下げた。
「お疲れさま」
私はデスクに座ると、会議資料を引き出しに入れ、フライヤーの原稿に目を落とした。入念にチェックする。
四か月後にドームで開催されるハンドメイドイベントで、約三百の出店が決まっている。
「昼間、バタついてた件か」
顔を上げた。槇田部長が目の前に立っていて、フライヤーを覗き込んでいた。
「行くぞ」
部長に帰り支度をするように言われていたのを忘れていた。
「珍しいですね。二人で飲みですか?」
残業していた隣のチームから声を掛けられ、ハッとした。男のくせに噂好きだと聞いている。
部長と親密だなんて噂でも立てられたら、困る。
「飯食いながら打ち合わせだ。午前の会議がおしたせいで、昼飯食えなかった上に打ち合わせし損なったんだよ」
部長は言った。
ご飯、行くの?
送ってくれるだけじゃないの?
「そうっすか。お疲れさまです」
「お疲れ。お前らもほどほどで帰れよ。まだ水曜だ」
「はい」
私はフライヤーを鞄に入れて、ファスナーを閉め、立ち上がった。
「何、食う? 調子悪いならあっさりしたもんがいいか?」
エレベーターの中で、部長が言った。
「え? ホントに打ち合わせですか?」
「は?」
「資料、持ってないんですけど」
「お前……」
部長が信じられないという表情で、ため息をついた。
「わざと言ってんの?」
「何をです?」
「天然か?」
「は?」
からかわれているようにしか思えず、私は部長から目を逸らし、扉を見つめた。
「変な噂されたら困るだろ」
「え?」
「俺とお前が付き合ってるなんて噂されたら、仕事やりにくいだろ」
「ああ……。はい」
確かに。
部長はモテる。
三十五歳で独身、長身で引き締まった身体、出世街道まっしぐらの部長の妻の座を狙う女性社員は多い。
「で? 何食う?」
「あ、いえ……」
「お互い、昼飯食い損ねたのは本当だろ。いいから付き合え。奢ってやるから」
結局、半ば無理やりにタクシーに押し込まれ、部長の行きつけだという定食屋に連れて行かれた。
「酒、飲めるよな?」
「いえ、私は——」
「ビール以外だと……焼酎? ……はないよな」
メニューにはビールと日本酒、焼酎しかない。
「おばちゃん。この他に、酒ないの?」
よほど親しいようで、部長は隣のテーブルを拭いている六十代前半くらいの女性に聞いた。厨房には六十代後半くらいの男性。恐らく夫婦で営んでいるのだろう。
「槇ちゃん。彼女にお酒をご馳走するなら、もっとお洒落な店にしないと」と、おばちゃんは呆れ顔。
槇ちゃん……?
「酒はついで。美味い飯を食わせたかったんだよ。少し体調悪いみたいだから、あっさりしたもんがいいんだけど」
「だったら、お酒はダメでしょ!」
部長が叱られた。
なんだかやけに可笑しくて、私は思わず声を漏らした。
「くくく……」
「何、笑ってんだよ」
「だって……部長が子供みたいに叱られるとか……」
「私たちにしたら、子供みたいな年だからね」
おばちゃんは私に温かいお茶を淹れてくれた。部長の前には瓶ビールとグラス。
「ありがとうございます」
「あなたの親は私たちより若いか」
私の親……。