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温かい湯飲みを両手で握り、ふと写真の中の両親を思い出した。
「うどん、食べられそう?」
おばちゃんが聞く。
「はい」
「槇ちゃんもうどんでいいね?」
「え」
部長は明らかに不服そう。
それはそうだ。ただでさえ物足りないだろうに、昼ご飯も食べていない。
「肉入りの大盛りにしてあげるから」
「はーい」
部長はネクタイを少し緩め、ビールに手を伸ばした。私は慌てて先に瓶を持つ。
「どうぞ」
「ああ……」
心なしか少し不機嫌そうに、部長はグラスを私に向けた。
コポコポと音を立てて、泡がグラスを埋める。
部長は「お疲れ」と言って一気に飲み干した。
いい飲みっぷり。
私が二杯目を注ごうとすると、部長が手から瓶を奪った。
「あとは自分でやる」
「え?」
「仕事じゃないんだから、いいんだよ」
「はぁ」
仕事……みたいなもんじゃない。
私はまた、温かい湯飲みを握り締めた。
「明日は何時だ?」と、部長がビールを注ぎながら聞いた。
「え? あ、九時に印刷所です」
「そうか」
うどんは美味しかった。
あっさりしているのにしっかり味があって、私好みの太麺が特に気に入った。
「ご馳走様でした。すごく美味しかったです」
食べ終えて顔を上げると、部長は既につゆまで飲み干していた。左手で頬杖をついて、私を見ている。右手の煙草は短くなっていた。
「俺の前で音立てて食う女、初めてだ」
「は?」
「誰の前でもそうなの? お前」
部長はニコチンを深く吸い込み、灰皿に押し付けて火を消し、横を向いて煙を吐いた。
「音立てないように食べたって美味しくないじゃないですか」
「けど、女ってそうだろ?」
その言葉が、やけに私を苛立たせた。
「大体、男が音立てるのは良くて、女は行儀悪いとか意味わかんないですよ。てか、音が気になるならうどんやラーメンを食べなきゃいいんです!」
部長がポカンと口を開けて、私を見ていた。
あ……。
しまった……。
いつもならこんなことで感情を乱したりしないのだが、今日はマズかった。
こんな日は、早く帰るべきだった。
「ラーメン、好きか?」
「は?」
「味噌? 醤油?」
なんで、ラーメン?
脈絡のない質問に、苛立ちが募る。
「俺は味噌」
「奇遇ですね、私も味噌が好きです。それが何か?」
「今度、食いに行こうぜ」
「行きませんよ! 何で私と部長が——」
ふと、思った。
口説かれてる……?
そして、思い直した。
いや、まさかね。
いくら私が地味な三十路女だからって、ラーメンで口説くとかないでしょ。
「お前が考えてること、多分アタリだ」
「え……?」
部長はテーブルに三千円置き、立ち上がった。
「ご馳走さん」
私も鞄を持ち、後に続いて立ち上がった。
「ご馳走様でした!」
おばちゃんが嬉しそうに手を振って見送ってくれた。
「あの、ご馳走様でした」
店を出た私は、ペコリと頭を下げた。
「ああ」
「じゃあ、帰ります。お疲れさまでした」
私はもう一度頭を下げ、百八十度方向転換した。大通りに向かって歩き出そうとした瞬間、グイッと腕を掴まれた。
「待て」
「え?」
「何、しれっと帰ろうとしてんだよ。俺がさっき言ったこと、聞いてたか?」
さっき言ったこと……。
少し前の部長との会話を思い返してみる。
「え? 今からラーメンは無理ですよ?」
「は? 行かねーよ! その後だ」
「何でしたっけ?」
まさか、ラーメンで口説かれてるかも、なんて考えたことは言えない。
「お前、マジで天然なの?」
「はい? さっきから——」
唐突に掴まれた腕をグイッと引き寄せられた。目の前には部長の顔。
抵抗する間もなく、部長の唇が私の唇に触れた。
な——!
私は慌てて力いっぱい部長の身体を押したが、びくともしない。それどころか、部長の腕は私の腰を抱き、更に身体が密着する。
なん……で——。
唇にぬるっと柔らかくて湿った部長の舌が触れ、私は咄嗟に噛みついた。
「——って!」
ようやく、部長の腕から解放された。
部長が指で唇を拭う。
下唇に少し、血が滲んでいた。
「噛みつくとか、ひどくね?」
「ひどいのはどっちですか! 何するんですか!!」
「お前が鈍いから?」
「は? 悪ふざけも大概にしてください! セクハラですよ!」
一瞬、部長が目を細めて私を睨み、私は後退った。
何なの……一体……。
「部長が……言ったんですよ……。噂は困るって……。なのに! なんでこんな——」
「お前が困るだろうって意味だよ」
「え?」
「俺は別に困らない。けど、お前は色々やりにくくなるだろう? 道の真ん中でやらかした俺が言うのもなんだけどな」
部長が前髪をかき上げて言った。
「ま、噂になったら俺が何とかしてやるよ」
見られて困るようなことしておいて、何その偉そうな態度!!
てか、なんでキスなんか!?
無性に腹が立ってきた。
ただでさえ今日は体調が悪くて、忙しくて、とにかく苦しいのに、輪をかけるように部長にからかわれて振り回されて、うんざりだ。
早く帰りたい。
もう、何も考えたくない。
「結構です。噂は噂ですから。くだらない」
早く今日を終えたい。
今日は……嫌だ……。
脳裏に『三年前の今日』の光景がよみがえる。
階段。
横たわる義父。
無表情で義父を見る妹。
腕時計に目をやると、視界がかすんだ。
二十一時三十五分。
「言うねぇ。けど、こういう時は素直に——って、おい! 大丈夫か?」
「え……?」
足に力が入らない。呼吸が苦しい。汗が吹き出し、シャツがべとつく。
「おい! 那須川!」
ふらついた私は部長に抱き留められた。
温かい……。