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夜。玄関を開けると、靴は一足分だけ。
静まり返った空間に、あの匂いが満ちていた。
香水とも洗剤ともつかない、微かに湿った空気。
「おかえり」
リビングのソファから、蓮司の声がした。
テレビはついているが音は絞られていて、
映っているバラエティ番組のテンションだけが、遥の現実から浮いていた。
「……別に、ただ来ただけ」
「わかってる」
蓮司はそう言って立ち上がる。
笑っていたが、その笑いは目に届いていなかった。
遥は、制服の上着を脱ぎながら、何も考えないようにしていた。
学校でのざわめき。蓮司との噂。女子たちの視線。
男子の冷笑。教師の無視。
──それに、家でのあの朝の一幕。
弟の颯馬が、またカッターシャツを破いた。
義母はそれを見ても何も言わず、「あんたが誘うから」とだけ吐いた。
朝食は出されなかった。
(……何で、今日も来てんだろ)
ベッドに腰を下ろした瞬間、背中の打撲が軋んだ。
眉を動かすと、蓮司が近づいてくる気配がする。
「座ってていいよ。何か飲む?」
「いらない」
蓮司の声は、優しい。
けれどそれは、遥にとって何の救いにもならなかった。
優しさの中に興味がないことを、遥はもう知っていた。
沙耶香の話をしているとき以外、蓮司の目は“真っ直ぐ”にならない。
「……学校、楽しかった?」
蓮司が聞く。遥は答えない。
「噂、流れてるよ。俺たちが毎日やってるって」
「……知ってる」
「嬉しい?」
「馬鹿かよ」
蓮司は笑った。
けれどその笑いに、どこか濁ったものが混ざる。
「でもさ。あの顔、演技には見えなかったけどな。今日の昼」
遥は黙った。
それに答える言葉を持たなかった。
蓮司が近づいてくる。
指先が、首筋に触れる。
その瞬間、身体がびく、と反応した。
「ね、遥。……おまえさ」
囁くような声。
「日下部に、庇ってもらう想像とか──した?」
遥は、息を呑んだ。
そのまま目を逸らす。
「俺に抱かれてるとき、あいつのこと思い出した?」
「……してねぇ」
即答した。
けれど、それが嘘だと蓮司は見抜いていた。
「へぇ」
その一言の残酷さに、遥は言葉を失う。
蓮司の目が、獲物をとらえるように細められていた。
「でもさ、そういうときの顔、悪くなかったよ」
唇が触れる。
肩が押し倒される。
遥は抗わない。
抗って、何が変わるというのか。
それよりも──
(……“何もされなかった”一週間よりは、まだましだ)
何かされることでしか、自分の存在がわからない。
“何もされない”ことが、どれほど残酷だったかを、遥は知っている。
何もされず、ただ横にいられた日下部の家。
触れられず、問い詰められず、ただ「見られていた」時間。
その1週間が、遥を狂わせた。
だから今は、蓮司の手の中に沈む方が、よほど楽だった。
「ほら、また……声、我慢してる」
蓮司の声は、優しいままに残酷だった。
「好きでしょ、こういうの」
「……違ぇよ」
かすれた声で、遥は言う。
「そう言うのも、悪くない。俺、演技っぽい方が、興奮するし」
ベッドの軋む音。
蓮司の手が服を捲り上げる。
遥の視線は天井を彷徨う。
(こんなふうに壊されて、壊れたままのほうが──)
(“俺らしく”て、ちょうどいい)
涙は出なかった。
痛みも、快楽も、もうあまり区別がつかなかった。
ただ、どこかで――
日下部が“それ”を見抜いてしまうのが、怖かった。
守られたくない。
見捨てられたい。
でも──それでも、心の底で、ほんの少しだけ
(……見つけてほしかった)
そんな感情がまだ残っていることに、遥は自分で腹が立った。
「黙ってると、全部バレるよ」
蓮司が、笑ってそう言った。
その声が、妙に遠く聞こえた。