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昇降口の扉が開く音。靴箱の並ぶ夕暮れの空間に、夕日の橙色が斜めに差していた。
すでに帰る生徒の姿はまばらで、階段を降りる音が遠くに消える。
その中に、ぽつりと立っている日下部の姿があった。
少し離れた位置で、数人の男子と会話している。
声までは聞こえない。
けれど──笑っていた。
顔を、軽く緩めていた。
口元が、ほんの少し持ち上がっていた。
それだけだった。
それだけなのに、遥の胸の奥がきしんだ。
心臓が、音も立てずにひび割れる。
見てはいけないものを見たように、目が逸らせなかった。
日下部の隣にいる男子が、何かを言った。
笑いが起きた。
日下部も、その輪の中にいる。
手が、無意識に拳を握る。
靴箱の縁に置かれた手が、知らず、震えていた。
その瞬間──
日下部がこちらを見た、気がした。
だが。
一瞬だけ視線が重なった、と思ったその刹那、
日下部は何も言わずに目を逸らした。
視線を戻し、また誰かの言葉に頷き、少し、笑った。
──あ。
終わった。
そう思った。
終わった、と思ってしまった自分に、ぞっとした。
なんでもない、はずだった。
見ただけ、だった。
ただ、目が合って、逸らされただけ。
誰にでもある、たった一度の偶然だったのかもしれない。
でも──遥には、それだけで充分すぎた。
「っ……」
声にならない声が、喉の奥で死んでいく。
一歩、後ずさる。
鞄の紐を握る指に力が入らない。
ああ、避けた。
そう決めつけたかった。
そうじゃないと、これ以上、自分が壊れる理由がわからなかった。
──いや、きっと最初から、あいつ、引いてたんだ。
蓮司の声が頭に蘇る。
「遥さ、あいつに『見てたの、興奮した』って言ったんだって?」
言ってない。
言ってないけど、きっと、目に出ていたんだろう。
身体の反応とか、声とか──
あんなふうに、何度も蓮司に抱かれて、
「誰かに触れられるたびに、誰かを壊していく」
そんなふうに思って、怖くなって、動けなくなって。
でも、それすらもきっと、あいつから見れば──
「気持ち悪い」
そう思われたんだろう。
だって自分は、
自分は──
望んでしまった。
優しさを、
手を伸ばされることを、
あのとき、日下部の手に。
助けて、って言いたかった。
言えないのは、自分が汚れてるからだ。
自分の「助けて」は、「おまえが救え」って命令になる。
ただの命令だ。
ただの押しつけだ。
ただの、支配だ。
優しさは凶器。
触れたい、は暴力。
好意を抱けば、破壊が始まる。
笑えば誰かが泣く。
ずっとそうやって生きてきた。
触れず、求めず、黙って耐えていれば、
誰も壊れないと信じてきた。
壊れていくのが、自分ひとりで済むなら、それでよかった。
けれど。
日下部を、望んでしまった。
ただ、そばにいてほしい、なんて。
ただ、見てほしい、なんて。
そんなの、どれもこれも、罪だ。
一番やっちゃいけないことを、やったんだ。
──だから、避けられた。
当たり前じゃないか。
あんなふうに自分の手を掴ませて、あんなふうに縋って、
「助けて」とも言わずに、全部押しつけて。
気持ち悪いのは、自分だ。
おぞましいのは、自分だ。
この手も、声も、存在そのものが、全部。
逃げるように昇降口を出た。
走ることもできなかった。
どこかで靴の片方が脱げかけて、つんのめって、壁に手をついた。
涙が出るわけでもない。
ただ、息が吸えなかった。
どこにも行けなかった。
どこにも、帰る場所なんか、もともとなかった。