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ゆずき
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とうとう碧斗が戻って行った。
事故による怪我での入院という、喜ばしくない状況の中ではあったが、このひと月余り、ほぼ毎日のように顔を見ていたせいだろうか。会えなくても電話やメールで我慢できていたそれ以前と違い、会いたい時にすぐに彼に会えないこの状況はひどく寂しく、もどかしささえ感じられた。
けれど、来月、碧斗に会いに行く。会ったらどこに連れて行ってもらおうか、などとあえて楽しいことを想像するなどして、それらの気持ちを紛らわせていた。
「来月の三連休、碧斗の所に行ってくるね」
私たちの交際はすでに両家公認のものではあるが、そのことを告げた時、母の眉間には軽くしわが寄った。
その反応は想定内だったし、母が何を心配しているのかもなんとなく分かっている。
「ちゃんとホテルを取るのね?」
「もちろん」
母はまだ何か言い足りなさそうだった。しかし、これ以上はやめておこうとでも言うように口をつぐみ、やむを得ない顔で笑った。
「お父さんにはお母さんから言っておくわ」
それから数週間が経ち、待ちに待った三連休がやって来た。
はやる気持ちを持て余しながら、彼が住む街へと向かう。およそ二時間ちょっとの移動の後、目的地に到着した。
新幹線のホームに降り立ち、改札を出た所で、私に向かって大きく手を振る碧斗の姿を見つける。
彼は私の名を呼びながら、急ぎ足で近づいてきた。私の前で足を止め、満面の笑みを見せる。
「お疲れ。待ってたよ。ホテルは駅の近くだよな。先にチェックインする?」
「そうしたい。荷物を置いて、身軽になりたいな」
「そのキャリーバッグは俺が引っ張ろう」
「自分で……。あっ!」
碧斗はさっさと私の手からキャリーバッグを引き取ると、当然のように私の隣に並んで駅の出口へ足を向けた。
ホテルに着いてチェックインを済ませた後、碧斗にはロビーで待っていてもらい、いったん荷物を置くために部屋に行く。さっと身支度を整えてからロビーに降りた。
碧斗は手持無沙汰な様子でソファに座っていたが、私の姿を認めていそいそと立ち上がった。私を促して出入り口に向かいながら、ふと何かを思い出したような顔をする。
「そう言えば、昼は?」
「私は新幹線の中で駅弁を買って食べちゃった。碧斗は?」
「俺も食べて来た。それなら……」
少し考える素振りを見せた後、碧斗はにっと笑い、私にだけしか聞こえない声で言う。
「俺の部屋に行こう」
どきりとした。退院した碧斗がこちらに戻る前日に、ある会話を交わしたことを思い出したのだ。
碧斗は私の返事を待つことなく、ホテルの外に向かって歩き出す。
私はどきどきしながら慌ててその後を追ったが、ふと目に入った彼の耳は赤く色づいていた。
ちょうど客待ちをしていたタクシーを見つけて、私たちは乗り込んだ。碧斗が告げる行き先に向けてタクシーが走り出してから十数分後、茶色の建物が見えてきた。
「あれが今住んでるマンションだよ」
タクシーを降りて建物の中に入った私たちは、エレベーターで五階を目指した。
碧斗は私の先を歩いていたが、ある部屋の前で足を止めた。
「さぁ、どうぞ」
恭しい態度でドアを開ける彼が珍しくて、私はくすくすと笑いながら玄関に足を踏み入れた。
「お邪魔します」
ドアを閉めながら碧斗は廊下の先を顎で示す。
「その突き当りが部屋だから、適当に座ってて」
「うん」
私は恐る恐るドアを開けて、部屋に入った。互いの実家の互いの部屋には幾度となく出入りしていたというのに、ひどくどきどきするのは、今の彼との関係が「恋人同士」だからだろうか。
「コーヒーでいい?」
「あ、ありがとう」
背後から声をかけられてはっとした。慌てて礼を言いながら、私はさらに奥に足を進める。フローリングの上に敷かれたラグの上に、きっちりと膝を折って座った。
しばらくそうしていたところに、碧斗がコーヒーを運んできた。私を見て苦笑する。
「なんで正座してるの?」
「初めて来たから、なんとなく緊張しちゃって」
「俺と詩乃しかいないのに、緊張する意味が分からないな」
不思議そうに言いながら碧斗はカップをテーブルの上に置き、ソファに腰を下ろしたが、にやりとした笑みを浮かべて私を見つめる。
「もしかして、変なこと、考えてる?」
「へ、変なことなんて、何も」
私は内心焦った。碧斗の部屋に来ることになった時、いつぞやの会話を思い出してどきどきしたことは事実だし、今こうして彼の部屋にいることに緊張を感じていたりはするが、それ以外何も考えてはいない。いや、考えないようにしていると言った方が正しいかもしれない。
碧斗は私をじっと見て、くすりと笑う。
「ホントかな」
「ほんとだってば」
「ま、そういうことにしておくか」
笑いをかみ殺したような顔をしながら、碧斗はその話題を終わらせた。それから、自分の隣をぽんぽんと叩いて私を呼ぶ。
「とにかくここにおいで。床の上は足が痛くなるだろ」
普段し慣れない正座をしていたせいで、足がすでに痛い。私はソファに移動するために立ち上がろうとしたが、その瞬間、脚に違和感を覚えた。
「くうっ……」
やってしまったという思いで顔をしかめ、私は床に手を着いて体を支えた。
碧斗が慌てて私の傍までやって来る。
「どうした?大丈夫か?」
つまらないことで彼に心配顔をさせてしまったことを申し訳なく思う。私は苦笑いを浮かべて説明した。
「あ、いや、ごめん。たいしたことじゃないの。その、足がしびれちゃって……」
「足?」
私の隣に腰を下ろした碧斗は、ほっとしたような、笑いたいような顔をしていた。
こんな所を見せてしまって恥ずかしいと、私は顔を伏せて痺れが去るのを待った。