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タツ兄に自分とのことを真剣に考えて欲しいと言われて数日。
今日はお父さんがお母さんに一日中付いているからと言ってくれて。
「父さんたちも夫婦水入らずで過ごすから、菜乃香もたまには息抜きをしておいで」
と気遣ってくれた。
恐らくそれは私がタツ兄と再会したこと、タツ兄がお母さんの前で意味深な発言をしたことに起因しているんだと思う。
だけど――。
両親からそう言われた私が、二人から与えられた貴重な隙間時間を一緒に過ごそうと選んだ相手は、タツ兄ではくなおちゃんだった。
***
「久しぶりだね、菜乃香」
今日は久しぶりに高速を飛ばしてお隣の県まで遊びに行こうと言う話になっていて。
そう言う時のお決まりコース。
数百円払えば丸一日車を停めておける新幹線の駅付近のパーキングに車を停めた私は、そのままなおちゃんの車の助手席に乗り込んだ。
いつものように何気なく席に着いた際、シートの位置や背もたれの傾きにちょっぴり違和感を感じて。
長いこと会えていなかった間に、なおちゃんの奥さんがここに座ったのかな?とぼんやりと考えて、その資格もない癖に、一丁前。私はとても寂しい気持ちに支配された。
***
目的地に着いた私たちは、アーケード街を二人で腕を組んで歩いて。
市内では決して出来ない、まるで恋人同士のような時間にほんの束の間お母さんのことを頭の片隅に追いやった私は、このデートの最後にタツ兄のことをなおちゃんに切り出そうと心に決めていた。
会ってすぐに話したら、今日のデートが台無しになるかも知れないとか打算的なことを考えている私。
こんな時まで、なおちゃんとの楽しい時間を享受したいとか考えてしまっているだなんて、嫌になるぐらい狡い女だと自己嫌悪に陥った。
今日のなおちゃんは私と一緒に歩きながら、おもちゃコーナーをやたらと気にするの。
今までこんなことはなかったから何事かしら?とキョトンとしたら、なおちゃんがまるで私のその視線を待っていたみたいに切り出した。
「実は知り合いの子供がね、ミニカにハマってるらしいんだけど……どうしても手に入れられない車があるらしくて。出掛けたら気にしてくれるよう頼まれてるんだ」
そのまま携帯画面の画像フォルダから、可愛い猫の描かれたラッピングカーのミニ版――いわゆるミニチュア自動車玩具――の写真を見せてきて「これなんだけどね」と指さしてみせる。
ミニカは子供たちに国産車のミニカーを届けたい、と言う思いから出来た、ミニーという会社のロングセラー商品だ。
私には子供もいないし、自分自身そういうものに興味がなかったから詳しくは知らなかったけれど、存在ぐらいは認識している有名なおもちゃだと思う。
なおちゃんの知り合いの子供が欲しがっているのは、そのミニカが時折出す限定品のトイカーらしい。
「悪いんだけど菜乃香も一緒に探してくれるかな?」
なおチャンにそうおねだりされたら、うなずくしかないじゃない。
幸い目当てのミニカーは車体が可愛い猫の絵柄でラッピングされているのが印象的で。
物があれば、私でもすぐに分かりそうだったから。
なおちゃんとふたり。棚に並んだ沢山のミニカをあっちの端とこっちの端に別れて一つずつチェックしていって。
「なかったね」
十分くらいかけてじっくり探したけれど、お目当てのミニカは見つけられなくて……何だかちょっぴり残念に思ってしまった。
後にそのミニカーは、私にとってなおちゃんからのとんでもない裏切りの合図だったと知るのだけれど、それはもう少し後のお話。
***
十四時くらいには向こうを引き上げて、十五時過ぎには地元へ帰ってきた私たちは、ある意味いつも通り。
私が車を停めた駐車場に、なおちゃんの車も入れて。
敷地内の片隅に停められた車内が、私たちの密会場所に早変わりした。
なおちゃんの愛車のワンボックスカーには運転席との間に黒いカーテンがあって、それを閉めればフロントガラスの方からも後部座席が隠されてしまう。
加えてフロントとフロントドア以外―セカンドとリアシートに面した窓全てが濃いスモークフィルムに覆われていたから。
運転席との境目のカーテンを閉めてしまうと外からは車内が全然見えなくなるのだ。
一度、不安に駆られて外から覗いてみたことがあるけれど、顔を窓ガラスにくっ付けてじっと目を凝らしてやっと……シートなどが見える感じだった。
前からセカンドシートに異動するなりすぐ、なおちゃんがギュッと私を抱きしめてきて、耳元で「俺、久々に菜乃香を抱きたいんだけど」ってささやいてきた。
いつもの私ならこのまま流されるようにうなずくんだけど――。
「あのね、なおちゃん、今日は聞いて欲しいことがあるの」
首筋に口付けを落とすなおちゃんからそっと身体を離すと、彼の顔を真正面から見据える。
「聞いて欲しいこと?」
例え何か話したいことがあったとしても、私たちはエッチをしながら息をするみたいに会話をするのが常だったから、改まってそんなことを言われたことになおちゃんも驚いたみたい。
「――きっとそれは俺にとってろくな話じゃないんだろうね」
吐息を落として居住まいを正した。
***
「つまりは……本気で菜乃香のことを愛してくれそうな男が現れた、と――。そういう話?」
タツ兄との出会い、母とタツ兄とのやり取り、タツ兄から打ち明けられた私への熱い想い。
それらを包み隠さずなおちゃんに話したら、静かな声音でなおちゃんが問うてきた。
私はコクッとうなずくと、じっとなおちゃんを見詰めて。
「で、それを俺に話して菜乃香はどうしたいの?」
ややして吐息交じり。
なおちゃんにじっと見詰められた私は、言葉に詰まった。
心の片隅。
嘘でもいいから、『そんな男はやめておけ』『俺と別れるとか言うなよ』『俺には菜乃香しかいないんだ』とか言って、なおちゃんが懸命に私を引き留める言葉を模索してくれるんじゃないかと期待していた。
なのに――。
なおちゃんはやっぱり今日もいつも通り。決めるのは菜乃香自身なのだと突き付けてくるの。
「わた、私は……」
なおちゃんの顔をまっすぐに見ていられなくて。思わずうつむいたら、触れられ慣れたなおちゃんの手が伸びてきてあごをすくい上げられる。
「なぁ菜乃香。これは二人にとって大事な話だ。目ぇそらしたりすんなよ。大体お前の決意が固いんなら俺の目を見て話せるはずだろ? 違うか?」
唇が触れそうなくらい顔を近付けられて、至近距離でそんな風に言ってくるとか……。なおちゃんはどこまでもズルイ。
彼は私と長い歳月一緒にいた中で、どうやったら効果的に私を自分の思い通りに堕とせるか、熟知していた。
「私はなおちゃんと……別――」
――なおちゃんと別れてタツ兄と新しい日々を歩んで行こうと思ってる。
なおちゃんと会う前に、何度も何度もシミュレーションしたセリフだ。
だってそうするのが、みんなが幸せになれる唯一の方法だもの。
私はなおちゃんの奥様に引け目や後ろめたさを感じなくて済むようになる。
なおちゃんは奥さんへの裏切りに終止符を打つことが出来る。
お母さんは私に彼氏がいるって知ったらきっと喜んでくれるし、ホッとしてくれるはず。
だけど――。
そうだ。
お母さん。私が結婚してしまったら心配事が消えて、ホッとして力尽きてしまうんじゃない……?
私が結婚するまでは死ねない、と淡く微笑んだお母さんの顔が脳裏にちらついて、私は言葉に詰まってしまう。
「菜乃香は俺と別れたい? お母さんを安心させてあげて……心残りを取り除いてあげたい?」
なおちゃんはきっと、私が何に迷い、先が言えずにつまずいてしまったのか、的確に理解しているの。
彼は言葉にこそしなかったけれど、『そうやって安心させてあげて、お母さんを苦しい身体から解き放ってあげたいの?』と含ませていた。
もちろん、そんなの私の本意じゃない。
それが例えお母さんを苦しめることになるのだと分かっていても……利己的でわがままで甘ちゃんな私はお母さんにこの世に対する未練を持ち続けて、少しでも長く現世に留まっていて欲しい……。
「わ、私はなおちゃんと――」
別れられない?
あんなに頑張ってなおちゃんとの離別を決意したのに。
これからはタツ兄を愛すことが出来るよう、タツ兄だけを見て、彼の気持ちに応えていくんだ。
そう思ったはずなのに。
何て脆弱な覚悟なの――。
視界がゆらゆらと涙に滲んで先が言えずにいる私に、なおちゃんが追い打ちをかけてくる。
「それは今日結論を出さないといけないことなの? もっとじっくり考えてからじゃダメなのか?」
そんなことをしたら、またズルズルと同じことの繰り返しになってしまう。
そう分かっているのに。
なおちゃんからの提案はふわふわの綿菓子みたいに甘くて……私はついほだされてしまいそうになって。
まるでその揺らぎを確定させたいみたいになおちゃんの唇が近付いてきたから……私はギュッと目をつぶった。
――と。
カバンの中に入れて助手席に置いていた携帯電話がバイブレーションを伴って着信を告げてきたから。
(――お母さんに何かあった!?)
予期せぬ電話はそういう危険を多分に孕んでいる。
私はなおちゃんを押し退けるようにして立ち上がると、助手席のカバンを持ち上げた。
震える手で中から携帯を取り出して画面を見たら――。
「タツ、兄……」
それはまだ、お母さんと同じ病院の別病棟へ入院しているはずのタツ兄からの着信だった。
***
私が戸惑いに携帯の画面をじっとみつめている間にもずっと着信は続いていて。
あまりにしつこく鳴るから(やっぱりお母さんに何かあったのかも!)って不安になった。
実際に何かあれば病院から直接電話が掛かってくるはずだ。
(あ、でもお父さんがいるのにわざわざ病院からは掛かってこないか)
あるとしたら今日一日お母さんに付き添っているはずのお父さんからのはず。
だけど――。
頼みの綱のお父さんは、大好きな妻の緊急事態に滅法弱いことを私は知っていた。
もしかしたら予期せぬ事態に気が動転して、身動きが取れなくなっているのかも知れない。
たまたまその場にタツ兄が居合わせたのだとしたら――。
私はなおちゃんに「ごめん」と断りを入れると、震える指先で通話ボタンをタップした。
「――もしもし?」
『なのちゃん?』
私が応じると同時、タツ兄が被せるように私の名を呼んで。
次いで心底ホッとしたように『良かった、通じた』とつぶやくから。
「あ、あのっ」
にわかに不安になった私は、こんな時なのに横から私の腰を抱こうとしてくるなおちゃんが鬱陶しくてたまらないの……。
私はなおちゃんの手をそっと押さえると、距離をあけて座り直した。
そのままなおちゃんをじっと見つめて視線だけで〝邪魔しないで〟と訴えると、タツ兄との電話に集中する。
『僕さ、今なのちゃんのお母さんの病室に来てるんだけど……』
「えっ」
お母さんの病室に、という言葉にドキッとしたと同時、電話の向こうで話し声が聞こえて来て。
ガサガサッという音の後に、『なのちゃん、貴女、今ひとりなの?』と問い掛けられた。
私は声の主がタツ兄からお母さんに変わったことにドキッとして……。
すぐには答えることが出来なかった。
結局「えっと……」と不自然に言いさしたまま黙り込んでしまった私に、電話口でお母さんが小さく吐息を落として。
私はそれだけで、何もかも見透かされているみたいな気持ちになって、ソワソワと落ち着かなくなってしまう。
『――なのちゃん、今どこにいるのかはお母さんにも分からないけど……とりあえず病院に戻って来られないかな? お母さん、なのちゃんに会って話したいことがあるの』
ややして母からそう提案された私は、「分かった」と言うことしか出来なかった。
***
「ごめんなさい、なおちゃん。私、病院に戻らなきゃいけなくなった……」
通話を終えるなりなおちゃんに向き直ってそう言ったら、どこか不自然すぎるくらい自然な動作でスマートフォンを下に降ろしたなおちゃんが、「分かったよ」とやけにあっさり返してきた。
私が彼に背中を向けて通話している間に、なおちゃんがコソコソと(?)携帯をいじっていたことに、私は妙な胸騒ぎを覚えてしまう。
(考えすぎ、だよね?)
実際、手持無沙汰な時にスマートフォンをいじるだなんて、よくある話だ。
自分がなおちゃんの立場でもきっと、時間つぶしにスマホを見てしまっていたと思うし。
でも――。
なおちゃんが立ち上げていた画面がチラリと見えてしまった私は……それがメッセージアプリだったことに気が付いてしまっていたから。
(私と一緒にいるのに……誰とやり取りていたの?)
自分のことを棚に上げてそう思ってしまった。
もちろん、奥様という可能性だってあるはずだ。
なのに――。
垣間見えた画面に、やたら可愛いスタンプがひしめき合っているように見えたことに、心の中にポツンと一滴墨汁を落としたみたいなモヤモヤが広がっていくのを止められないの。
加えて、つい今し方まで私を抱きたいと熱い視線を送っていたなおちゃんが、やけにアッサリ引き下がってくれたことも、不安に追い打ちをかけてきた。
(ねぇ、菜乃香。貴女、バカなの? 病気で入院中の家族からの呼び出しに、ぐちぐちと難癖つける方が問題あるでしょ)
そう考えて動揺する気持ちを否定してみたものの、すぐに(でも……その電話はさっき話したタツ兄の携帯電話から掛かってきてたんだよ? 何で気にしてくれないの?)と思ってしまって。
打ち消しても打ち消しても何故か澱のように鬱々とした気持ちが心の中にわだかまって……私は気持ちが沈んでいくのを感じずにはいられなかった。
――ねぇなおちゃん、『そんなの菜乃香の杞憂だよ』って笑い飛ばして? お願いだから。