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病院へ駆けつけてみると、意外にも病室にはタツ兄はおろか、お父さんの姿もなくて。
「なのちゃんいらっしゃい。貴女とゆっくり二人で話したくて、お父さんたちには席を空けてもらったの」
お母さんのいるベッドの間仕切りカーテンをちらりとめくって顔を覗かせるなり、母が一人きりなことに驚いて私は動きを止めた。
そんな私に、開口一番母から掛けられた言葉がそれだった。
「私と……二人で?」
ほんの少しベッドをリクライニングさせて、身体をちょっとだけ起こしたお母さんのどこか寂しそうな視線に、私の心臓はバクバクと嫌な音を立てて騒ぎ始める。
「お母さんね、今日はてっきりなのちゃんは建興くんと一緒にいると思ってたの」
お父さんが私に自由な時間をプレゼントしてくれたことは、お母さんも知っていた。
お母さんはご飯をそんなに食べられているわけではないけれど、闘病期間自体がまだ二ヶ月ちょっととそんなに長くないので、病状の割に痩せていない。
でも、どんどん進行している病気のせいで、胆管が詰まって黄疸が出てきていて。
先日主治医の先生が内科的措置で何とか胆管を通す処置を試みて下さったのだけれど、胆管の一部が物凄く狭くなっていて無理だったと報告を受けたばかり。
そのままにしておけば一週間持たないということで、明日、胆管のバイパスを作る開腹手術を受けることになっている。
お母さん自身もその話は主治医から聞かされていたはずなのに、全然悲嘆した様子を見せず「手術すればいいだけよ? 大丈夫。お母さん、なのちゃんの花嫁姿を見るまでは絶対死なないから」と微笑んでいた。
今日の外出の勧めは、母の手術前に父が私に与えてくれた息抜きみたいなもの。
私がずっと根を詰めて母に付き添っていたことを知っていたからこその、両親からの優しさだった。
なのに私はそんな日に――。
「ねぇ菜乃香。お母さん、単刀直入に聞くね? 貴女、もしかしてまだ緒川さんと続いてるんじゃない?」
お母さんはあえて私を〝菜乃香〟と呼んで、なおかつ〝あの人〟とか誤魔化したりせず、ズバっとなおちゃんの苗字――緒川――を出して切り込んできた。
私はお母さんからの真っ直ぐな視線を受けて、ヒュッと喉の奥が詰まるような錯覚を覚える。
お母さんには、なおちゃんとの旅行の後に渡したお土産の中へ彼の名前が入ったホテルの領収が混ざっていて、『人を好きになる気持ちは大切だけど、不倫だけはダメよ?』と諌められた過去があった。
あの時、私はお母さんを悲しませたくなくてなおちゃんと別れようとしたけど、結局出来なかったのを思い出す。
(こ、れ……は何て答えるのが正解?)
――『もぉ、お母さんったら。何バカなこと言ってるの? とっくに別れたに決まってるじゃない』
きっとそう告げて、ニコッと笑うのがベストだよね?
なのに――。
私は何も言えないままオロオロと視線を彷徨わせて……挙句お母さんの眼差しから逃れるように顔をうつむけてしまった。
「そっか……やっぱり」
ややしてお母さんがポツンとつぶやいて。
私はいたたまれなさに思わずお母さんを見詰めたけれど、何も言葉が出てこなかった。
「ねぇなのちゃん。建興くんがなのちゃんのことを本気で好きでいてくれてるのは聞いてる?」
ややしてポツンと……。
お母さんがまるで話題を変えるみたいにそう言ってくれて。
私は恐る恐るコクッとうなずいた。
「それを知っても……なのちゃんの気持ちは動かない?」
「あ、あのね、お母さん。今日は私、緒川さんと最後のデートをしてきたの。……それで……タツ兄のことを話して……タツ兄の気持ちに応えるつもりだから……緒川さんとはもう終わりにしたいって……。そう話したの」
お母さんにどこか縋りつくような視線を向けられて、私は今度こそちゃんと正解を口にする。
実際にはまだハッキリとは『別れたい』と言えていない。
でも――。
なおちゃんに、自分のことを好きだと言ってくれたタツ兄とのことを前向きに検討したいって話したのは嘘じゃなかったから。
「私、緒川さんとは別れる……。その後でタツ兄とちゃんと向き合うつもり。でも……私がもしタツ兄と付き合ったりしたら、お母さんは……」
――お母さんは頑張ろうって思える張り合いを失ったりしない?
喉の奥まで出かかった言葉をグッと飲み込んだら、お母さんが点滴の刺さったままの手を私の方へそっと伸ばしてきた。
私は慌ててお母さんに近付いて――。
「建興くんとならなのちゃんの花嫁衣装、お母さんも見られるかなぁー。あー、でもね……お母さん、すっごく欲張りだから。それが見られたら……今度は可愛い孫の顔を見たいな?ってなると思うの」
そこでお母さんの手が、私の手の上にそっと載せられる。
「だからお母さん、なのちゃんが建興くんと幸せになったとしても……やっぱりとうぶん死ねないな?ってなるわね」
温かいお母さんの手――。
私はお母さんの手を上からギュッと包み込むと、「ホント? 約束してくれる?」と問いかけた。
***
お母さんが「当たり前よ」と答えてくれたのを聞いた瞬間、私の中で何かがカチッと音を立てて切り替わったのが分かった。
「――お母さん、私、ちょっとお父さんを呼びに行ってくるね」
お母さんに声を掛けると、私は携帯をギュッと握りしめて病室を後にする。
頬が涙で濡れてひんやり感じられたけれど、そんなのは気にしない。グズグズな顔をしてたって構わないの。
今は。――今だけは……。ちゃんと顔を上げて、前を向いて歩かなきゃって思った。
それほどまでにお母さんの言葉は私の中で大きくて。
ずっとずっと、私が幸せになることは、お母さんの死と直結していると思い込んできた。
でも、違うんだって思えたから。
だから、今度こそちゃんと――。
私は手にした携帯をギュッと力強く握りしめた。
***
ロビーに行くと、お父さんとタツ兄が窓際の席へ横並びに座って、外を眺めながら自動販売機のカップ入りコーヒーを飲んでいた。
私は二人に近付くと、「お父さん、お母さんが待ってるから行ってあげて?」と声を掛けて。
タツ兄には「お願い。少しの間、そばにいて欲しいの」とお願いをした。
私一人だと決意が揺らいでしまうかも知れないから。
今からすることをお父さんには見られたくないけれど、タツ兄には見ていて欲しい。
私はタツ兄の横に腰かけると、携帯電話の履歴からなおちゃんの電話番号をタップした。
あえてスマートフォンの画面をタツ兄から隠さず操作したのは、沢山残る〝なおちゃん〟の履歴の山を見てもらって、今から電話する相手が私にとって親密な間柄の人なのだと察してもらえたら、とかズルイことを考えてのことだった。
なおちゃんとのこと、タツ兄には言えなくて隠したままでいたけれど、全てを知った上でもう一度私のことを見つめ直して欲しい。
私の汚いところも全部知った上で……それでも私を愛してくれるとタツ兄が言ってくれたなら。
その時こそ私はタツ兄の手を取ろうと思っているの。
***
コール数回。
『……菜乃香? な、にか……あったの?』
どこか息が上がった様子のなおちゃんの声に、私は違和感を覚えて。
私はこういうなおちゃんの声をよく知っていた。
電話の先。
微かになおちゃんの背後で、彼以外の人の息遣いと、衣擦れの音が聞こえた気がして――。
ほんのちょっと胸の奥がチクンと痛む。
(きっとなおちゃんの奥様はいつもこんな気持ちだったんだ)
なおちゃんと共に過ごした長い年月の中。彼と一緒にいる時に奥様から連絡が入ったことも、一度や二度じゃない。
そのたびに、私はなおちゃんのそばで息を殺して気配を消していたのだけれど。
(案外そういう空気感って伝わるものなのね)
そう気付いたら、私には痛みを感じる資格すらないんだって改めて自覚させられた。
「なおちゃん、さっき中断した話の続き、手短に伝えちゃうね。私、なおちゃんと別れたい。――ううん、別れるから」
『――おい、菜乃香。そんなの電話じゃ』
「電話で十分だよ、なおちゃん。私、もう二度となおちゃんには会わないって決めたの……。だからお願い。なおちゃんも……、もうこれ以上罪を重ねないで? 奥さんを……悲しませないで?」
奥さんと言う言葉を発した途端、私の隣でタツ兄がギュッと身体を固くしたのが分かった。
そりゃそうだよね。
不倫してる女なんて最低だもん。
だけどそれを隠したままタツ兄の優しさに付け込むなんてこと、私には出来そうになかったの。
きっと傷つけたよね。ごめんね、タツ兄。
貴方が好きだと思いを寄せてくれている女は、妻子ある男性と付き合えるような、そんな人間なんです。
それを踏まえた上で、もう一度私のことを見詰め直してもらえたら。
そう思っているの。
***
電話を切って小さく吐息を落としたと同時。
「なのちゃん、今の電話の相手って……」
すぐ隣からタツ兄の声がした。
「彼氏……だった、人……」
恐る恐る答えた私に、タツ兄の静かな視線が刺さる。
分かってる。タツ兄が聞きたいのはそこじゃないよね。
「……で、妻、帯者……」
観念したようにそう付け加えたら、喉の奥がヒリヒリと張り付いたように声が掠れた。
お母さんにはこちらの不注意でなおちゃんとのことに気付かれてしまったけれど、タツ兄は違う。
私はタツ兄にはわざと、なおちゃんとの関係は不倫だったのだと聞いてもらったんだもん。
「幻滅、した……よね」
タツ兄が黙り込んで口をきいてくれないことに耐え切れなくなった私は、自嘲気味につぶやいてタツ兄の様子をうかがった。
でも。
しばらく待ってみてもタツ兄はやっぱり何も言ってはくれなかったから。
「伝えなくてもいいことをあえてバラして……嫌な思いをさせて……ごめんね。でもね……私」
そういうのを隠したまま、何食わぬ顔でタツ兄の胸に飛び込むなんてこと、出来なかったの。
そう続けようとして。
(そんなことを彼に伝えて何になると言うんだろう?)
そう思ったら言葉が出てこなくて……。
私はタツ兄から視線を逸らさずにはいられなかった。
「あの……前に告白してくれたの、忘れてくれて大丈夫だから」
消え入りそうな声音でそう言うと、私はそっと席を立った。
そのままタツ兄に背中を向けてゆっくりと歩き出して。
ロビーの出口に差し掛かったところでポロリと涙が頬を伝ったことに自分自身で驚いた。
なおちゃんにサヨナラを告げた時には出なかった涙が、何で今頃あふれてきたんだろう。
ゆっくりと歩を進めながら、次から次に流れ落ちてくる涙に、私は自分の気持ちが全然分からなくて。
ただ頭の中でぼんやりと。
(お母さんごめんね。私、さっきしたお母さんとの約束、何ひとつ果たせそうにないよ)
そう思った――。