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ユカリは今もなお夢に見る英雄レブニオンが邪な妖精に立ち向かった時のように得意げに魔法少女の杖を掲げる。
「魔法少女の魔法で水を全て吸い上げる。流れ込む水も片っ端から全部。そうしたら呪いの源が現れるわけで、そこでベルが浄化の演奏を行う」
「なるほど。もしもユカリの魔法に限界があったら失敗するけど。……それはワタシの魔法でも同じか」ベルニージュは感心して何度か小さく頷く。「だけどそうなるとワタシたちは二人とも飴坊のそばで無防備だね。できれば囮もとい引き付け役が欲しいところ。呪いか土地神か祟り神か分からないけど、こちらを認識しているようだし。ユカリが水を吸い取ろうとしていることにも、ワタシが解呪の魔法を使おうとしていることにも勘付くだろうし、高圧水で狙い射ちにされるよ、ユカリは」
『私だけ!?』と言おうか、『もう胸に大穴が開いてるけどね!』と言おうか、ユカリが迷っている内に「俺がやろうか?」と透明蛇カーサが提案した。
ユカリはびくりと身を震わせる。完全に存在を忘れていた。カーサを探すように視線をあちこちに向ける。
「駄目だよ。カーサにはエーミを守ってもらおうと考えてたんだから」エーミが不思議そうに見つめるのでカーサについて説明する。「……というわけでどこか、そこら辺に見えない蛇がいるから踏まないように気を付けてね」
「まず君が足をどけてくれ。ユカリ」
ユカリは素知らぬ顔で一歩下がる。
「エーミなら大丈夫」エーミはなんでもなさそうに自信を見せる。「建物の陰に隠れたりしながら飴坊の注意を引けば良いんだよね。あの狭っ苦しい寺院で生活してきたから、そういうの得意なんだ」
そういえば、とユカリは思い出す。悪名の知れ渡った問題児とはサイスのエーミ評だ。ユカリのもう一人知る護女、生真面目なノンネットとは違い、悪戯好きらしい。今のところそのような印象はないが。
「他に頼れる人もなし。それでいい? ユカリ」
ベルニージュの確認にユカリは少し唸って拒否感を示すが、他に方法は思いつかない。
「……うん。でも無茶はしないでね。私やベルと違って蟲にも狙われるんだから屋根の下にも気を付けて」
「無茶してはいけないのはユカリさんとベルさんの方だよ。エーミが蟲に攫われたって飴坊を何とかして、解呪さえしてくれればエーミは解放されるんでしょ?」
至極真っ当な意見だ。ユカリは昼間の光に気圧された土小人のように後ずさりする。ベルニージュに助けを求めるが、勝敗は既に決している、という意味の笑みを浮かべていた。
「二人とも無茶しないでね、エーミのためにも」とエーミが念を押す。
「はい。気をつけます。ベルもカーサもよろしくね」ユカリが杖に跨ろうとするとベルニージュも座ろうとする。「別にベルはついて来なくて良いと思うんだけど」
「たぶんね。でも距離で効果が違うのは間違いないでしょ。でなけりゃここからクヴラフワ全土を浄化できるし。もちろんこのモーブン領全体に届く訳もない。つまりどこかに呪いの根源があって――それが飴坊の神様じゃないかって話だよね――、それを解呪することで全体の呪いが解けると考えられるわけだから、より近づいた方が確実なはず。それにいざという時にお互いに補助できる。それと――」
「分かった! 分かったよ。しっかりつかまっててね」
ベルと二人で杖に座り、ユカリは水面を飛び立つ鴨のように一息に空へと舞い上がる。
再び呪わしい姿に戻った湖畔へと飛ぶ。おぞましい蟲と穢れた水に覆われた飴坊もまた岸までやって来ていて、しかし地上には上がってこない。
「やっぱり水の供給が必要なんだね。ワタシの推測通りだ。あ! 見てユカリ! 飴坊が!」
今度はユカリにもよく見えた。飴坊の頭の辺りで蟲と水が渦を巻いている。ユカリは急加速したが、次の瞬間に水が放たれたのは街の方角だった。遠目にも屋根瓦が砂塵の如く舞い飛ぶのが見える。
「急がないと!」
ユカリは降下し、七つに減った石柱の一つに降り立とうとしたが、「まだ来るよ!」というベルの警告を受けて再度加速する。
思いもよらない方角から水流が放たれ、直撃はしなかったものの粘つく水を浴び、ユカリは悪態を打つ。どうやら飴坊は体のどこからでも水の矢を射ることができるらしい。
「これじゃあ降りられないね。まず私が水を吸い取らないといけないのに」
ユカリがそう言った直後、前触れなく飴坊の頭部が爆発した。すぐに蟲の群れと濁った水によって補われるが、放たれんとしていた高圧水の凝集が収まる。
ユカリは何とか悲鳴を呑み込んで冷静を装う。
「何だろう? 暴発した?」
「カーサじゃない? 石の柱を破壊した魔法に似てる」とベルニージュは冷静そのものに推測する。
今が好機だとユカリは石柱に降り立ってベルニージュを下ろすと、自分自身はもはや臆することもなく蟲の湖に飛び込む。そして魔法少女の杖を汚水の中へと勢いよく突っ込み、空中を【噛む】。水が杖の先に目掛けて流れ込む手応えを感じた。
「ユカリ?」とベルニージュの不安そうな声が降ってくる。「聞いてなかったけど、それってどれくらいかかるの?」
「よく見てよベル。この吸い込む速度! 空気の噴出で飛べるんだから吸い込む力だって強いんだよ。琵琶を弾けるように準備して!」
ユカリの言う通り、大酒飲みの酒杯の如く広い湖の水位がみるみる下がっていく。それはユカリ自身も、下降する水面を追わなければならない速さだ。すぐに巨大飴坊は湖から切り離された。すると杖を失った老人のようによろよろと水を求めて後退する。しかし蟲の柱でできた細い脚では去り行く水面には追い付けない。
「今だよ! ベル!」
【ユカリの合図でベルニージュが弦を掻き鳴らす。初めは確かめるように、次いで探るように、そして明確な意思をもって幽玄なる楽の音を爪弾く。ベルニージュの爪が軽やかに弦の上を踊り、不思議な琵琶の内に秘められていた音が弾け出て、呪いの湖を跳ね転がっていく。
蟲の澱みに侵された街に、湖に。失われた平穏を悼むように、姿を隠した繁栄を呼び戻すように。楽しげで嬉しげな喜びの楽が蟲の呪いも気にかけず駆け回る。
それもまたベルニージュの知らない楽の音だったが、失われた日々を日記で思い返した時のように記憶喪失の少女の心の中で呼びかけに反応した蛍のように燃えて応える。
誰かが笑いかける。野原を共に駆け回る。そうしていても良いのだ、という安心感に身が浸される。それはずっと一緒にいた大切な者たちの笑い声だ。これからも一緒にいる愛する者たちと共に聞いた小鳥の声だ。神々に捧げられた荘厳な楽の音であり、永遠の平穏と光に照らされた日々を願う祈りの声だ。
炎の如く眩いばかりに輝く四人の乙女たちが石の柱に上り、二人ずつベルニージュを挟むようにして楽の音に合わせて踊る。すらりと伸びた手足を跳ね上げ、腰を捻り、腕を回して飛び上がる。もっと沢山の娘たちが湖を寿ぐように岸辺に並び、足並み揃えて舞い踊る。そして雲衝くばかりの身の丈の母が何もかもを刷新するように、力強く大地を踏み鳴らし、楽の音に身を任せて湖を突き進む。
ベルニージュの記憶にはないが、それは確かにベルニージュの知っている光景だ。世の何処からも、頭の中からさえも消え失せているが、何より愛した光景だ。無数の燈火がベルニージュのそばにあった。ベルニージュもまた燈火の一つだった。ただ、それよりもずっと強力で、何物にも代えがたい光明が頭上に現れ、世界を遍く照らす。
蟲は母のように縋っていた巨大飴坊から離れ、散らばるようにどこかへ去っていく。
何より恋焦がれるも何処にあるかすらも分からないものを求め、ベルニージュは爪弾き、楽の音を奏じ切った】。
残されたのは、大量の水で出来た清らかな飴坊だけだったが、それも次の瞬間には熱に溶かされた氷のように流れ去った。
湖の底では川から流れてくる水をせっせと吸い込むユカリの姿があったが、蟲も飴坊も消え去ったのを確認すると杖に跨り、ベルニージュの元へと舞い戻る。
「やったね。ベル」
「お互いにね」
「ん? なんだろう、これ?」
ユカリは石柱のそばに何か煌めく物が落ちていることに気づき、拾い上げる。それは硝子で出来た人形だ。何か丸々とした動物を象っているが、摩耗のせいか、元からそういうものなのか何の動物かは分からない。犬のようにも、鼠のようにも、羊のようにも見える。
「それが次の魔導書?」とベルニージュも覗き込む。
「違うよ。蟲に覆われて以来ずっとここにあったのかな。落とし主が見つかると良いけど」
街の人々が遠巻きに眺めていることにユカリは気づいた。
「呪いが浄化されたのに悲しそうに見える」とユカリは不安そうに呟く。
「蟲が消え去った喜びよりも、湖が消え去った不安の方が強いんじゃない?」
「別に川からの流入が止まったわけじゃないからすぐに元通りなんだけど。水泥棒と思われても困るし吸い込んだ水は返しておこう」
ユカリが杖を掲げるとベルニージュが悪戯に誘うように提言する。「どうせなら派手にやってよ」
「任せて」
ユカリは一つの閃きを得て、試してみることにする。歯を噛み締めたままに、全ての水を放出する想像をする。逃げ場のない闇の中で圧縮される水を脳裏に描けたところでぱっと【歯を開く】。
次の瞬間、魔法少女の杖の先から猛烈な勢いで水が空へと放たれた。雲まで届く噴水だ。ユカリだけでなくそばにいたベルニージュまでもが小さな悲鳴を上げ、街の辺に集まった群衆からはどよめきが起こる。
一部の水は霧のように拡散し、ほとんどの水は逆さまの滝の如く空高く打ち上げられたのち、雨のように湖へと降り注ぐ。緑の陽光のせいか、虹は架からなかった。
「ユカリ……」とだけ、ベルニージュが恨めしそうに呟いた。
「ごめん。上手くできちゃった、高圧水」
「それは良いんだけどね。ずぶ濡れだよ」
ベルニージュは魔法の衣の裾を絞る。
「一度変身を解けば、もう一度変身する時には汚れも水分も消えてるよ」
「そうなんだ? 変身生活の知恵をありがとう。……ん?」
ベルニージュの視線をユカリも追う。そこには水辺に生える合掌茸があり、光を放っていた。その光はまるで煙のように振舞い、適切な季節を迎えて放散する胞子のようでもある。
意志を持った生き物のように光の胞子はユカリの元へ流れてきて、そして魔法少女の両耳に集まり、形を成した。今度は耳飾りだ。控えめな大きさだが、三稜鏡の如く多彩に光を放つ紅玉は強い存在感を放っている。
「つまり、合掌茸が魔導書ってこと?」とユカリは耳にぶら下がる魔導書に触れ、答えを求めてベルニージュに尋ねかける。
「もしくはその胞子が、かな。でも、うーん」
「単に茸の胞子を集めるのだったら大変だっただろうね」とユカリは冗談めかしてベルニージュに笑いかける。
「祟り神を鎮めることの方が大変だよ」ベルニージュの笑みは呆れに見える。「魔導書の気配はどうなった? その耳飾りに集約されたってことで良いの?」
「えーっと、いや、違うみたい。さっきよりも弱まったけど、まだ周囲から気配を感じる」
「そっか」とだけ呟いて、ベルニージュは深く考える時の難しい表情に変わる。
「それにしても茸と装身具に何の関係があるんだろう?」
「さあね。ただ一つ分かることは、これまで手に入れた魔導書は何の参考にもならないってこと」
「いつも通りだね」