コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第二章 檻
吉原──
華やぎの影に、幾万の涙を沈めた檻
女中「おひいさま、お待ちかねでございます」
その声に、廊下を歩み入った男がいた。
上質な紫紺の羽織を纏い、金の刺繍がちらちらと揺れる。
その面持ちは涼やかにして、どこか達観したものを湛えていた。
──さとみ。
武家上がりの新興成金。
されど品位を欠かさぬその物腰は、どこか他と異なり、妓たちの間でも密やかな話題になっていた。
ころん「おこしやして、だんだん」
ころんは浅く笑う。
花魁特有のなめらかな、そしてわずかに艶を含む女房詞(にょうぼことば)が、そよ風のように響いた。
ころん「ようお参りなされましたな。こいさん、
ずいと近う、おこしなされ」
さとみは静かに襖を閉め、畳の上に膝をつく。
その双眸(そうぼう)はころんをまっすぐに射抜いていた。
さとみ「まことに…、お美しゅうございますな」
ころん「まあ、お戯れを。拙者ごとき、薄花(う
すばな)のようなものでございますえ」
ころんは、うそぶきながらも、微かに目を伏せた。
けれども心の裡(うち)では、知らぬまに胸がちり、と疼くのを感じた。
──この男は、ほかの客とは違う。
酒が運ばれ、盃を交わす。
ころんは白魚のような手で、さとみの盃にとくとくと注いだ。
ころん「こいさんは、何ゆえ、かようなところへ
おいでやす?」
さとみ「綺麗なものを見たかった──それだけで
ございます」
さとみは淡く笑った。その声に、嘘のにおいはなかった。
ふと、ころんは己の手に目を落とす。
薄く、しなやかな指先。幾度となく客たちに触れられ、なおも汚れることを拒む指先。
この指が、いつか、この人にだけ、触れられたなら──
一瞬、そんな叶うはずもない夢が、脳裏をよぎった。
ころん「もし、わっちが花街を出たなら──おま
はん、迎えてくれますやろか」
ころんは、冗談めかして、けれども震える声で問うた。
さとみは盃を置き、ころんの手をとった。
ぬくもりが、伝わる。
さとみ「拙者、そなたを縛りつける気はござら
ん。ただ、共にありたい。それだけにご
ざいます」
ころんは、ただ、微笑んだ。
水鴉のように、孤独に生きてきた自分が、初めて誰かにすがりたいと願った瞬間だった。
──盃を交わし、言葉を重ね、空気がしんと深まった頃。
薄灯(うすあかり)のもと、ころんは静かに立ち上がった。
水浅葱の衣が、するりと音もなく流れ、白磁のような肌を、ほのかに炙り出す。
ころん「おこしなされ……お方さま」
柔らかな声色が、空気を震わせた。
その声は、これまでの艶(あで)やかさを潜め、どこか哀しみに濡れている。
さとみは膝を立てず、深々と座したまま、ころんを見上げた。
水鴉のごとく、夜の深みをその瞳に宿す花魁──
その姿に、言葉もないまま、ただ息を呑んだ。
ころんは、慎ましくも、艶やかに一歩近づいた。
帯がふわりと解かれ、さらさらと足元に落ちる。
ころん「……わっちのすべて、お見せいたします
え」
そして、わずかに笑う。
その笑みは、覚悟にも似て、痛ましいほどに透明だった。
──吉原の花魁は、恋に落ちてはならぬ。
心を許しては、ならぬ。
それが、幾度もたたき込まれてきた掟だった。
けれども、いま、ころんは──この男だけには、すべてを委ねてもよいと、そう思った。
さとみは、そっと立ち上がり、
ころんの肩に羽織をかけた。
さとみ「お寒(さぶ)ぅござろう……」
ころん「……だいじょうぶに、ございます」
ころんは、そっとさとみの胸に額をあずけた。
──心が、震える。
凍てついていた魂が、いま、ぬくもりに触れようとしていた。
──心が、震える。
凍てついていた魂が、いま、ぬくもりに触れようとしていた。
さとみ「ころん殿」
さとみは、低く呼びかけた。
ころんは、目を細める。
長い睫毛が、震えた。
ころん「……わっちは、花魁。
けんど──
今宵ばかりは、お方の一番になりたい」
ころんの声は、月光よりも細く、儚かった。
──二人の影が、ゆるりと重なっていく。
まだ触れず、まだ結ばれず。
けれど、心は、すでに深く、深く交わっていた。
外では、桜の花びらが風に舞い、
吉原の春が、静かに夜を濡らしていた──。
ー時は遡り禿時代ー
夕暮れ、霞む空。
煤けた格子の隙間から覗くのは、遥か彼方の、自由な空だった。
ころんは、まだ禿(かむろ)。
花魁の後ろをちょこちょこと付き従う、小さな花のつぼみ。
齢、わずか十二に満たぬ頃。
「こら、ころん! 早う支度せんか!」
女中の怒声に、小さな肩を震わせながら、ころんは慣れぬ手つきで櫛を取り、年若い妓の黒髪を梳いていた。
──うまくできないと、叩かれる。
泣いても許されない。
ここでは、涙ひとつ、命取り。
ころんは、唇をかみしめながら、誰よりも丁寧に、誰よりも静かに、仕える術を覚えていった。
ある夜──
花魁たちの宴が華やぐ座敷の奥、
灯火(ともしび)の陰から、ころんはそっと覗き見た。
大人たちの笑い声、酒の匂い、絢爛たる衣。
美しく、けれどどこか寂しい世界。
ころんの目は、知らず吸い寄せられた。
花魁の微笑み、そのひとつひとつが、まるで作り物のように見えたから。
──わっちも、いずれああなるのか。
心の奥で、冷たいものが沈んでいった。
ある晩、遅くに一人、庭に出た。
小さな月が、夜空に浮かんでいた。
「月さま……」
ころんは、手を伸ばす。
けれど、指先は空を掴むこともできない。
「……お月さまは、逃げもせんし、嘘もつかへんのに……」
ぽつり、こぼしたその声さえ、誰にも届かない。
裾のほつれた薄着を抱きしめ、震えながら、ころんはただ、月を見上げていた。
──その夜から、
妓楼の者たちは、ころんを密かにこう呼ぶようになった。
「水鴉(みずがらす)」
しとしとと静かに降る水のように、
闇に溶け、誰にも捕まらぬ美しい鳥。
泣くことも怒ることも、めったになく、
ただ静かに、誰よりも深く、己を閉ざしていった。
どれだけ歳を重ねてもその心の奥底には、
あの夜、月に手を伸ばした幼いころんが、
ずっと、静かに、座っていた。
第二章 完
第三章 夜へ続く