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レモニカは積み荷の陰で、この不思議な海と同様に静かに事の成り行きを見守っている。
ネドマリアはモディーハンナを睨みつけ、うんざりしたように口を開く。「その女はショーダリーの、ある人攫いの商売相手。攫われた子供たちの卸先だよ」
モディーハンナが何も言わないのでベルニージュは答えを促す。「そうなの? ネドマリアの言っていることは本当?」
「正確には違います」モディーハンナは控えめに首を横に振る。「私のかつて所属していた組織は、言うなれば仲介業者でした。ショーダリー元委員長の裏の顔は知っていましたが、当時は同一人物だと知りませんでした。それに私も今は足を洗っています。改心もしているつもりです。故郷の父母に誓って」
「人攫いの仲間には違いないじゃない。いや、人攫いそのものだよ。それに改心したってのも嘘だね」とネドマリアは異端審問官のようにモディーハンナの言葉を強く否定する。「当時、人喰い衆とあだ名されていた人攫いの組織、その幹部だったドボルグという男と会うために、この女はこの船に乗っている、という情報をつかんでるんだよ」
モディーハンナは言葉を返す前に目を伏せる。どうやら本当のことのようだ。
モディーハンナは砂粒を選り分けるように言葉を選んでいた。「確かに、会いに行くつもりですが、想像しておられるような理由ではありません。私はむしろ彼を説得し、やはり改心を促すつもりです」
「改心を促す?」ベルニージュは引っかかった言葉をすくい上げる。「つまりそのドボルグって男は今も人攫いを?」
「いいえ、そうではなく。それとは別に。私は――」と言いかけたモディーハンナの言にネドマリアは言葉を挟む。
「頭目について心当たりは?」
モディーハンナは不思議な笛の音でも聞いたかのように首を傾げる。「心当たり? 妙な言い回しですね。もう十年も前に彼は救童軍によって討伐されたはずですが。生きているとでも?」
ネドマリアは首を横に振ってぶっきらぼうに言う。「噂程度なら生きてるって話を聞いたことあるけど、私にとってはどちらでも構わないよ。彼自身には興味ないから」
「まあ、絶対にないとは言い切れません。私自身、サリーズもサリーズの死体も見ていませんから。私が人攫いの仲間だった最後の夜、救童軍の僧兵にあっけなく拘束されて、散々に叩きのめされて、気が付けば檻の中でしたし」
「そう」ネドマリアは興味無さそうに呟いて少し考えた後、再び口を開く。「まあいいや。それで全部だよ、私が聞きたいことはね」
ベルニージュは元人攫いのモディーハンナと新しい友人ネドマリアの間に立って言う。「ワタシはまだ聞きたいことがあるんですけど」
「後で良い?」
「何の後ですか?」
その時、睨み合う二人の魔法使いの後ろで大きな物音がした。積み荷の崩れる音だとベルニージュは気づく。そして自分のやってしまったことにも気づく。今、レモニカの最も近くにいるのはモディーハンナだ。
ベルニージュが振り返るのとほぼ同時にモディーハンナが悲鳴を、喉がねじ切れそうな叫び声をあげた。悪霊の爪で心臓を鷲掴みにされたような苦悶の声は高く短く響いて凪に近い渦の海に消えた。モディーハンナは気を失い、少しの受け身も取ることなく、ばたりと倒れた。
レモニカの姿は、この大陸の国々の盛衰に関心を払う者なら誰もが知る恐怖の象徴、二対の捩じれた角付き兜、重装鎧は鈍く光り、血に塗れ、抜き放たれた剣から滴っている。その鎧の細部は妙に禍々しく尖り、捻じれている。どうやらモディーハンナの想像上の誇張があるらしいが、それは間違いなくグリシアン大陸西方の広い領域を治めるライゼン大王国、その支配者に仕える騎士の甲冑だ。
悲鳴を聞きつけてやって来た者はいなかった。それほどに船団の外郭は人がいない。沈黙と静寂と無関心だけが湿気た甲板に屯っている。
意識を失ったモディーハンナにたいした怪我がないことを確認すると船員用の寝台に寝かせる。
ベルニージュは独り言をいうように呟く。「あの姿に恐怖を感じる人がいるとすれば、もっと西の国々だろうと思っていたけど。そうか。シグニカだもんね。いてもおかしくない」
「あれってライゼン騎士の鎧?」とネドマリアが確認するように尋ねる。
レモニカは答えられず、ベルニージュが答える。「そうですね。ああいう全身甲冑は騎士の中でも位の高い家系か精鋭中の精鋭しか身に着けられないですけどね。シグニカには難民や戦争孤児も流れ着いて来ますから。この、モディーハンナもそうなのかもしれません」
「クヴラフワの生き残りとか?」と再びモディーハンナを見下ろしてネドマリアは呟く。
「どうでしょうね。元人攫いだったことと年頃から考えるとメゴット辺りかも」ベルニージュは真面目な声の響きに切り替える。「それで、ネドマリアさん。ワタシたちに話す気はありますか?」
ネドマリアと目が合ったがベルニージュにその思惑は読み取れなかった。
「まあ、隠すようなことではないよ、別にね。ただ、私の姉が幼い頃にさらわれて、探してるってだけ」とネドマリアは一息に答える。「別に珍しい話でもないよね」
幼い頃にいなくなった姉を妹が、と言う割にネドマリアの言動の真剣さには新鮮味があるように、ベルニージュには感じられた。
幼い頃に別離したとあっては正確な顔形も思い出せないだろう。憎悪の鮮度を保つには長すぎる時間だ。
何より、その言動からベルニージュに思い起こさせるのは復讐だ。ネドマリアの最も嫌っている大男、あれが復讐相手で、おそらくもうことは済んでいるのだろう、とこれまでの会話から推測するのはそれほど突飛でもない。だとすれば今もネドマリアの心の奥に燻っている炎は何に対して牙を剥くつもりなのだろうか。ドボルグ何某か、サリーズ何某か。
堅く閉ざされた沈黙の門を押し通るようにレモニカが口を開く。「わたくしにも沢山の兄弟姉妹がおりますわ。この呪いのこともあって直接会ったことはないのですが、遠くから見たことがあります。それにそれとは別に姉のように接してくれた家庭教師もいました。今思い返せば嫌いな生き物に変身しているわたくしを前にして、少しも嫌な顔をしなかった。わたくしはそのような者を裏切って……。あ! ではなくて、その……」
ベルニージュのほうの嫌いな大男に変身しているレモニカの表情を見るに、場を和ませようとして失敗したらしいことが読み取れる。
ベルニージュもまた兄弟姉妹を想いたかったが、記憶にないのでいるのかいないのかすら分からない。
この三人の中で一番不幸なのは誰だろう、と実のないことを考える。
誰から何を言うでもなく、その晩三人はその船室に、モディーハンナの眠る寝室に泊まった。ネドマリアは他に何も過去について話さなかった。
天が静かにぐるりと半回転し、夜が水平線の向こうに消えようかというその時、唐突に船が大きく揺れる。大渦に捕らえられて以来、このような唐突な揺れは一度もなかった。とても立ち上がれず、床に這いつくばる。船がひっくり返らないことが不思議なくらいに揺さぶられる。ベルニージュもレモニカも起き上がろうとすべきかすら分からず揺れを堪える。モディーハンナはまだ気を失ったままだった。
とても長く感じた揺れが収まると、三人は甲板へ飛び出す。モディーハンナの面倒を見るべき者がいるとすれば自分だということに、ベルニージュは飛び出した後で気づいたが、引き返せなかった。
まだ早いはずの太陽が昇っている。そして、ただどこまでも続く海が目減りし、空の割合が増している。船団の周りに控えめに渦巻いていた白波の代わりに、大きな雲が流れている。船縁から身を乗り出すと、船を預かる海面はすぐそばにあるが、水平線ははるか下方にあった。船団の周りの海面だけが山のような水塊になって持ち上がっているらしい。
「わたくしたちを殺すために、あるいは監禁するためだけに、これほどのことをするでしょうか?」とレモニカは冷静に言う。
「確かに。もっともだね」と言ってベルニージュは頷く。「これだけの水があったら、シグニカの低地なんて水の底だよ」