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下界の異常など露とも気にしない朝陽が照らす海のない海は乾いた水底を露わにしているが、魚も貝も海藻でさえも生き物は一切がその場を立ち去って、ただ荒漠とした斜面がずっと地平線まで伸びている。まるで無謬荒野だ、と想像の中でしか訪れたことのない伝説の土地にユカリは喩える。
大地というのは海にとっての山のようなものだということが、露わになった海底の深さからよく分かる。昼間でも、水がなくても真っ暗な、あの奥深くの谷底に招かれたことを今になって実感し、体の奥から身震いする。
陽光を受けて銀河に染めたように複雑に煌めく真珠飾りの銀冠を合切袋から取り出して、ユカリは途方に暮れる。これをそこら辺の砂地に置けばいいのだろうか。そこら辺は海なのだろうか。
宙空に伸びる桟橋まで来る者はいないが、ビンガの港町の町民は遠巻きに海なき海を眺めて恐れている。祈る者も嘆く者も皆ただただ目の前の世界の終りのような光景を恐れている。しかし怒鳴る者や泣き喚く者はおらず、何が起こったのか、何が起こるのか、まるで知っているかのように、覚悟しているかのように恐れている。
ユカリにはその意味が分からなかったが、それについて考える前にできることを試す。
「フォーリオンさん!」と呼びかけるのが最初にすべき試行だとユカリは思った。
「ようやく戻って来たか」と今や虚ろな海フォーリオンが答え、ユカリは一安心する。地平線の向こうから尊大な海の声が風もなしに漂ってくる。「我が愛しき宝、貝の王の最高傑作を取り戻したか」
「はい。ここに」と言ってユカリは恭しく捧げ持つ。
「さあ、寄越せ」と海が言うので、ユカリはすぐそばの砂地にできるだけ恭しく放り投げた。
これが正解なのか分からないが、地平線の向こうまで持って来いと言われたとしても、そう簡単には応えられない。
「何だ? 貴様、ふざけているのか?」フォーリオンは静かな怒りを秘めて言う。
「あ、いいえ、すみません。どうすれば渡したことになるのか分からなくて」ユカリは桟橋から飛び降りて銀冠を拾う。「どうすればよろしいでしょうか?」
「どうすれば、だと? そのごみを捨ててさっさと我が宝を探しに戻れ!」
その言葉でようやくユカリはフォーリオンの海の怒りの矛先を理解した。この銀冠は最高傑作ではないというのだ。
しかし貝の王に与えられた真珠の刀剣リンガ・ミルがその妖しげな光で以て証明したはずだ、と困惑するユカリは腰から刃のない剣を引き抜く。剣はやはり光っていた。しかしその光は明らかに弱まっている。七色の光は命を削って衰えた生き物の呼吸のように緩やかだ。最高傑作はある、が近くにはない、と示している。
「三日だ」とフォーリオンの海が傲岸に宣言する。
ユカリは聞きたくない言葉を聞くためにもう一度尋ねる。「何と仰いました?」
「あと三日の内に至宝を届けに参らねば、卑しきシグニカの大地を我が身の底に沈める。永遠に」とフォーリオンは断言した。
ユカリは地平線の向こうまで響く昂った声を張り上げる。「何を言ってるんですか!? 魔法の誓いに違反しますよ! そうすれば貴方の魂は――」
「いいや、吾輩が誓ったのは人質の安寧だ。シグニカの民の安寧ではない」
「そんなはずはない! 私は確かに最高傑作の真珠を取り戻すまでと取り戻したあと私が死ぬまで、人質とシグニカの民の安寧を要求した!」
フォーリオンが嵐の下の荒波のように笑う。「貴様は確かに要求したのだろう。だが魔法の誓いは石板に記された文言が全てだ」
フォーリオンがそう言うと、ユカリの足元の砂地が一人でに窪み、文字が記され始めた。
魔法の誓いの、石板に記された契約文が地面に現れる。そして、確かにそこにはユカリの指定したはずのシグニカの民が含まれていなかった。
貝の王の仕業だ。フォーリオンの海と比べて親し気だったために油断し、心を許してしまい、そして騙されたのだとユカリは気づく。
ただし最高傑作を取り戻しさえすれば、それ以後ユカリが死ぬまでフォーリオンの海と海に接する全ての陸地に平穏が訪れることも確かだ。ユカリは念のために何度も読み返した。
「全ては愚かな貴様の無様な失敗だ」
その言葉を無視してユカリは念を押す。「三日ですね」
ユカリはリンガ・ミルの光をもう一度見る。弱々しいが確かに光っている。最高傑作の真珠は遠くない場所にある。どこにあるのか、誰が持っているのかはこの剣の光よりも明らかだ。
一体全体、時間制限を設けてフォーリオンの海に何の得があるというのか、ユカリはアギノアたちのところへ戻りながら考える。見つかるまで探し続けさせるだけで構わないはずだ。何か急ぐ理由があったのなら初めから期限を決めておけば良かったことだ。急がねばならない理由が新たに生まれたのだとすれば何だろう。
ユカリはユビスに跨り、混乱の収まらないビンガの港町を稲妻のように駆け抜け、アギノアとヒューグの元に戻る。
真珠剣リンガ・ミルは不思議で生命的な強い光を取り戻した。
「探しているのはこの冠ではありませんでした」と言ってユカリはユビスから降りて、二人に迫る。「私の事情、これ以上詳しく話す必要がありますか? 分かってるんじゃないですか? 貝の王の最高傑作です。持ってますよね?」
ヒューグが正直に悪びれることなく答える。「ああ、知っている。話していなかったが、そもそもその真珠を海の底から盗み出したのは私だ」
貝の王の言葉を思い出す。ノンネットの言葉を思い出す。
「ヒューグさんは青銅の鎧を身につけているわけではなくて、例のカウレンの城邑から盗み出された青銅像、それに【憑依】している亡霊なんですね?」
「ああ、あの肩車の少女尼僧が言っていた通りだよ。亡霊は心外だがね。元々この中にいた奴は昇天したよ」
では本当に実際に海の底へ降りて宝を盗み出してきたのか、とユカリは呆れる。何のために? という問いをユカリは飲み込む。今はどうでもいいことだ。
「それを渡してください。フォーリオンの海に還してください」とユカリは訴える。
亡霊ヒューグはアギノアの黒面紗をちらりと見て、青銅像の首を横に振らせる。「構わないが、浄火の礼拝堂へ行くのが先だ。そうでなければ返せない事情がある」
ユカリは更に真剣に熱意と焦慮を込めて訴える。「沢山の罪無き人々の命がかかってるんです。シグニカが海に沈んでしまうかもしれないんです」
元はと言えばたった一枚の銀貨が原因だ。これで何千人、何万人もの人間が死んでしまったなら、とユカリは想像する。とても耐えられないだろう。死んでも死にきれない。
しかしヒューグは頑なで、首を縦には振らなかった。
「彼らを見殺しにしたいとは思わない。だがこちらも譲れない。急いで行き、急いで戻る他ない」
「貴方は……」死なないかもしれないけど、と言いかけた言葉をユカリは飲み込んだ。
本当に浄火の礼拝堂にいくしかないのだろうか、とユカリは歯噛みする。すぐ目の前に真珠の最高傑作があり、すぐ後ろに届け先があるのだ。
魔法少女の第三魔法【憑依】の魔法で青銅像を乗っ取ることはできない、とユカリは思案する。あれは生物のみを対象とした魔法だ。
一方非生物のみを対象とした【破壊】の魔法で噛み砕くことができそうな部位をすべて破壊しても、行動を止められるほどではない。元々が歯を立てられるような細い物や小さい物しか対象とできないからだ。
隙を見て、青銅像の大きな鞄とアギノアの小さな鞄を盗めるだろうか、と考え、無理だと結論付ける。結果的に負けたとはいえ、風使いの剣士ヘルヌスと渡り合っていた人物だ。正面からどうにか出来る相手ではない。
観念してユカリは尋ねる。「浄火の礼拝堂まではどれくらいですか?」
「そうだな」ヒューグは少しの間、小さく唸りながら考える。「普通の馬なら、往復で二日といったところだ」
まだ安心はできないはずだが、ユカリはほっと溜息をつく。「ユビスなら一日もかかりませんね。分かりました。急ぎましょう」