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「……フレイア」
「なに?」
「頼むから少しだけ離れてくれないか」
困ったように眉尻を下げながらそう言ったルシアンに、私は目を吊り上げて力強く告げた。
「絶対にダメ」
あの恐ろしい夜が明けた翌日。
私は朝早くからルシアンの執務室へと乗り込み、彼を詰問した。
一体どこの誰が、偉大なる公爵の命を狙おうとしたというのか。
犯人の目星すら曖昧に濁す彼に問い詰めても、返ってくるのは味気ない言葉ばかりだった。
『単なる山賊の仕業だった。すでに処理してあるから、もう気に病む必要はない』
『そんなはず…………いや、なんでもないわ』
そんなはずがない。だって、あの刺客が使っていたのは間違いなく黒魔法だったのだから。
たかが山賊が黒魔法が使えるとは到底思えない。
でも、それを口にすることはできなかった。
それを追及すれば、私の右腕に刻まれた傷に黒魔法が蝕まれていることまで悟られてしまう。
だから私は、言葉を呑み込んでこう告げるしかなかった。
『だったら、これからしばらくの間、絶対に私の視界から離れないで。いいわね?』
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
「なによ、構わないって言ってくれたじゃない。急にダメなんて言わないわよね?」
射抜くような鋭い視線を向けると、ルシアンは困惑の笑みを浮かべた。
「もちろん君の気が済むまで続けて構わないが……このまま、浴室にまで着いてくるつもりか?」
「え?」
彼の言葉にハッとして周囲を見渡すと、着替えのタオルや香油が入った桶を手にしたメイドたちが、ほのかに頬を赤く染めて困り顔でこちらを見ていたことに気づいた。
普段、できる限り人目を避けている私が珍しくルシアンにべったりと引っ付いていることに動揺を隠せずにいた使用人たちも、今までで一番の驚愕を顔に浮かべている。
刺客に襲われたことで不安になり、夫に縋り付いているとでも思われているのだろうか。
「ち、ちがっ……!」
夫が好きすぎるあまり浴室にまでついていこうとしているバカな女――そんな風に見られているのだと悟った瞬間、激しい羞恥心が怒涛のように押し寄せてきた。
熱く火照る頬を誤魔化すように腕を組むと、私は振り返って扉の前に立っていた護衛騎士へと声をかけた。
「ちょっと、あなたたち!」
「は、はい。公爵夫人」
「二人とも彼の浴室まで着いて行って。彼から絶対に目を離してはダメよ」
あまりに唐突な命令に、騎士たちはあからさまに戸惑った表情で顔を見合わせたが、すぐに慌てて頷いた。
私の破天荒な言動の数々に頭を押さえ、深いため息を吐いたルシアンを、私はじっと睨みつける。
これは全部あなたのためなのよ。
どこの誰があなたを狙っているかわからない以上、一秒だって一人にしておけるはずがない。
目の届く距離にいてくれないと、不安で仕方なくなるの。
もしもあなたが死んでしまったら、私は未亡人になってしまう。だからこれは、すべて私自身のための行動。あなたのためなんかじゃない。
「早く行ってきて。私はここで待っているから」
「分かりました」
不満そうな顔をしつつも、最終的には私の言葉に従ってくれる彼の姿に安堵する。
ルシアンの執務室に一人残された私は、窓際に置かれた一人掛けの椅子に腰を下ろすと、適当に本棚から抜き取った本を開いて時間を潰そうとした。
それからしばらくして、部屋の外に出ていたメイドが一通の便箋を手に戻ってきた。
「奥様、神殿からお手紙をお持ちいたしました」
「……神殿から?」
「おそらく、もう時期に行われる聖祭のことかと」
メイドの言葉に、思わず眉間に皺が寄る。
私の露骨な不機嫌さに焦りを浮かべたメイドに「ありがとう」とだけ返し、すぐに下がらせた。
勝手に発動している光魔法のおかげか、最近は黒魔法による感情の暴走も幾分か落ち着いてきた気がする。
そうでなければ、先日のように声を荒げてしまっていただろうから。
「聖祭……またあの嫌な時期がきてしまったのね」
聖祭。神殿で年に一度執り行われる、もっとも格式高い聖なる儀式。
王族や貴族はもちろん、平民に至るまで参加するロストン王国最大のお祭りだ。
どれほど私が聖女の力を拒絶しようとも、この国の民として生まれた以上、聖祭への不参加は神への反逆と同義とみなされてしまう。
だから毎年、鬱々とした気持ちを押し殺して顔だけは出していたのだが……。
聖祭の間、聖女として式に参加する私は彼と一緒にいられない。
聖女として神殿の行事に拘束される私と、公爵として多忙を極める彼が行動を共にできるはずもないのだから。
「何をそんなに悩んでいる?」
「きゃっ! び、びっくりした……」
次々と押し寄せる厄介事に頭を抱えて唸っていたため、彼が部屋に戻ってきたことすら気づかなかった。
目線を上げると、そこには黒いガウンを一枚羽織っただけのルシアンが立っていた。
湯上がりで濡れた髪をタオルで拭いながら、心配そうに私の顔色を伺っている。
頭を上げて見上げなければならないほど体の大きな男が、私を見つめる時だけは自信なさげな目をする。
……どうして?
王室騎士団にも引けを取らない精鋭軍を率いる、アルスハイン公爵家の当主。彼ほどの力と権力があれば、望むものなどすべて手に入るはずなのに。
あなたは、私を大切にしてくれている。きっと、この世界の誰よりも。
そんなあなたは夫として、妻である私の望みを叶えてくれる?
いつも私を不快にさせる、あの傲慢な皇太子を。
私と母を地獄の底へと突き落とした、実の父親を。
彼らが二度と私の目の前に現れないよう、徹底的に消し去ってほしい。
私の望みを叶えることができるのは、この世でただ一人あなただけ。
もちろん、正義感の強いあなたがそんなことをするはずがないのだけれど……。
だけど、あなたの私を見つめる眼差しがいつも私を勘違いさせるから。
「神殿からの手紙を読んでいたの。いつもどおりよ。聖祭が始まる前に神殿にきて、聖女の勤めを果たせって」
「なるほど。それで、どうするつもりだ?」
「当然、行くわけないでしょう。神殿なんて大嫌いよ。毎年、聖祭の本番にだけ顔を出してあげているのだから、彼らも文句は言えないはずわ」
鬱陶しそうにそう言い放つと、私は手にしていた封筒を投げ捨てるようにして机の上に放り投げた。
「ねえ、あなたは明日、何時に寝室を出るの?」
「いつも通り、日が昇る頃には執務室に入る予定だが……まさか明日も、今日のように付きまとうつもりか?」
「嫌な言い方をしないでちょうだい。私が傍にいるのがそんなに迷惑なの? ……私が離れてと言った時には、一向に聞いてくれないくせに」
「そうではない。まだ傷だって完全に治っていないのだから、部屋でゆっくり身体を休めるべきだろうと言いたいんだ」
「何度も言っているけれど、私は足を怪我したわけじゃないわ。今まで通り部屋に閉じこもって刺繍でもしているより、こうして歩き回っている方がずっと健康的に良いと医者だって言っていたもの」
どくどくと胸の奥で早鐘を打つ心臓が煩わしくてたまらない。
私は誤魔化すように、肩に流れ落ちた髪をそっと耳の後ろへと掛け直した。
ダメよ、このままだと昨日みたいになってしまう。
どうにか感情を鎮めようと下唇を強く噛みしめると、私は勢いよく椅子から立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。
「……それじゃあ、また明日の朝に来るわ。私も自分の部屋に戻って寝ることにするから」
「そんなに俺のことを心配してくれるとは、驚きだな」
振り返った私に、ルシアンは少し意地悪な笑みを浮かべて見つめてくる。
「朝早くから起こすのも申し訳ない。それなら今夜はここで、一緒に眠るのはどうだ?」
「なっ……調子に乗らないで! 私がいつあなたを心配したっていうのよ!」
一気に熱くなる頬が、余計に私の羞恥心を激しく煽り立てる。
「もう知らない、私は自分の部屋に帰るから」
「ああ、おやすみ。フレイア」
悪戯っぽく、どこか楽しそうに目を細めたルシアンの笑顔は、いつもの威厳ある公爵の顔ではなく、まるで無邪気な少年のように幼く見えた。
「……おやすみ。私のバカな夫」
それだけを残し、私は逃げるようにして彼の部屋をあとにした。