テラーノベル
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ゆゆゆゆ
主の姿が消えた部屋は、静かだった。
異様なほどに。
いつもなら、
赤い笑い声がして、
革靴の音がして、
低い声が耳へ落ちてくる。
なのに今は、
何もない。
ノスフェラトゥはスペクターの私室で、一人立ち尽くしていた。
重たいカーテン。
薄暗い蝋燭。
赤いベルベット。
その空間から、
“主の気配”だけが抜け落ちている。
落ち着かない。
胸の奥がざわつく。
ノスフェラトゥは苛立ったように眉を寄せた。
……馬鹿らしい。
たかが数時間いないだけだ。
なのに。
部屋へ残された残香が、
妙に神経を刺激する。
スペクターが脱ぎ捨てた上着。
椅子へ掛けられた黒いコート。
そして。
ベッドへ転がったままの、
赤いシルクハット。
ノスフェラトゥの視線がそこへ吸い寄せられる。
やめろ。
そう思ったのに。
気づけば、
足が動いていた。
ゆっくり近づく。
指先で、
シルクハットへ触れる。
まだ温もりが残っている気がした。
「……」
喉が熱い。
ノスフェラトゥは唇を噛む。
そのまま、
上着を持ち上げる。
スペクターの匂い。
甘い煙草。
古い紙。
赤ワインみたいな香り。
それだけで、
胸の奥が妙に落ち着く。
まるで、
巣穴へ戻った獣みたいだった。
ノスフェラトゥは無意識に、
ベッドへ衣服を集め始める。
コート。
手袋。
シルクハット。
全部、
自分の周りへ。
抱え込むように。
埋もれるように。
気づいていない。
その行為が、
完全に“巣作り”そのものだということに。
古い本能。
安心できる匂いを集め、
最も落ち着ける場所を作る。
誇り高い古代吸血鬼。
そのはずなのに。
今のノスフェラトゥは、
主の残香へ縋る獣だった。
ベッドへ身体を預ける。
スペクターのコートへ顔を埋める。
熱い。
落ち着く。
それが悔しい。
なのに。
離したくない。
ノスフェラトゥは赤いシルクハットを抱え込み、
浅く息を吐いた。
その時。
カチャ。
扉が開く音。
「……!」
ノスフェラトゥの身体が強張る。
振り返る。
そこには。
赤いシルクハットを持たない、
本物のスペクター。
数秒。
沈黙。
スペクターは部屋の光景を見渡した。
ベッド。
散乱した自分の衣服。
その中心で、
シルクハットを抱え込んだノスフェラトゥ。
そして。
クスクス、と笑う。
「ああ」
楽しそうに。
本当に嬉しそうに。
「これは随分と、悪戯が過ぎるね」
「……」
ノスフェラトゥは固まったまま動けない。
逃げたい。
だが。
身体がベッドへ沈み込んで、
すぐ動けない。
スペクターはゆっくり近づいてきた。
革靴の音。
コツ、コツ。
そのたび、
ノスフェラトゥの鼓動が速くなる。
スペクターはベッドの縁へ腰掛ける。
そして。
ノスフェラトゥが抱えていた赤いシルクハットを、
優しく取り上げた。
「……っ」
その瞬間。
妙な喪失感が胸を刺す。
まるで。
安心できる場所を、
ひとつ剥がされたみたいに。
スペクターはそれを見逃さなかった。
赤い瞳が細くなる。
「私の衣服を集めて」
甘い声。
「ここで一体何をしていたんだい?」
ノスフェラトゥは答えられない。
羞恥で喉が詰まる。
全部見られた。
主の匂いへ埋もれて、
安心していた姿。
完全に。
獣だった。
スペクターはシルクハットを膝へ置き、
静かに覗き込む。
「説明してごらん」
「……」
「どうして、こんなことしたの?」
ノスフェラトゥの耳がぺたりと伏せる。
悔しい。
だが。
嘘もつけない。
スペクターの匂いが消えると、
胸の奥が寒くなる。
落ち着かなくなる。
一人でいる感覚に耐えられない。
その沈黙を、
スペクターは優しく待っていた。
やがて。
ノスフェラトゥは掠れた声で呟く。
「……寒くて」
スペクターの目が、ゆっくり細められる。
「寒い?」
「……」
「私がいないと?」
ノスフェラトゥは答えない。
答えられない。
だが。
スペクターはもう理解していた。
だから。
嬉しそうに笑う。
壊れ物を見つけた子供みたいに。
そして。
ベッドへ片膝を乗せ、
静かにノスフェラトゥの髪を撫でた。
「かわいいね」
その声だけで。
ノスフェラトゥは、
悔しいほど安心してしまった。
コメント
1件
ああ……もう、この回、本当にたまらなかったです。ノス♡♡♡トゥが主の匂いを集めて巣作りしちゃうの、無自覚なのに完全に獣の本能って感じで愛おしすぎました。悔しがってるのに離せない、バレた時の固まり方と耳ペタン。そしてスペクターの「寒い?」に込められた優しい優越感ったらないですね。二人の距離がぐっと縮まった22話、胸がきゅっとなりました。