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沙羅はフワフワとした気持ちで、帰りの電車に乗った。
バッグからスマホ取り出し、メッセージアプリを立ち上げる。日下部真理の名前を見つけ、ポチポチと入力を始めた。
『紹介してくれたハウスクリーニングの会社の面接を受けて来ました。無事、採用をもらって、一歩前進です。良い会社を紹介してくれてありがとう』
送信ボタンを押して、窓の外に視線を移した。建ち並ぶビルの合間から青空が見える。
期待半分、あきらめ半分で臨んだ面接で、即日採用を決定してもらえた沙羅の口元は、だらしなく緩んでしまう。
「ふふっ、良かった」
手の中にあるスマホが振動を伝えた。
真理から返事かな?と画面を見ると、政志からのメッセージだ。
『急用が入って、美幸の塾のお迎えに行けなくなった。悪いけど、代わりにお迎え頼めるかな?』
上昇していた気分は急降下で、見事な三日坊主だなと思いながら、『わかりました』と返事をした。
急用と言って、政志が片桐と会って居たとしても構わない。
ただ、自分から言い出したお迎えの約束を、反故にした事が気に入らなかった。
「まあ、営業さんは何かとお忙しいんでしょうね」と心の中でつぶやく。
そして、片桐のその後が気に掛かる。
日々大きくなっていくお腹を抱えた片桐が、このままおとなしく引き下がるとは思えなかった。
「そう言えば……」
以前、頼んだ興信所の調査報告の進捗が気になる。
電車の乗り換えのタイミングで、どのくらいの情報を集められたのか、中間報告だけでも聞こうかと興信所に連絡を入れた。すると「丁度連絡をしようと思っていました」と返事をもらう。
予想より早く情報を集めた興信所の技術に、”さすがプロだなぁ”と沙羅は感心した。帰りがけに興信所に立ち寄り、調査報告の内容の説明を受ける。
目の前にあるA4のファイルをおそるおそる開いた。
ページをめくるたびに、片桐の日常が赤裸々にさらされていく。
それは、沙羅が想像していた通り……いや、想像よりもっと乱れたものだった。
「こんな女に引っかかって、政志もバカよね」
ポツリと発した一言は、政志に対する侮蔑というより同情の気持ちから出たものだった。
結婚して13年、穏やかな日常は信頼関係の上に成り立っていた。
燃えるような愛情でなくても、優しさを分け合うような情愛が確かにあった。
不倫を知るまでは、穏やかな日常が、ずっと続いて行くものだと信じて疑わずにいた。それなのに、政志は片桐のような女に引っかかって、日常を壊してしまったのだ。
「片桐には、ひとつの家庭を壊した責任を取ってもらわないといけないわね」
沙羅は報告書を見つめながら、強い瞳でつぶやいた。
自宅に戻った沙羅は、夕飯の仕込みを終え、ふうっと息を吐く。
「後は、温めれば食べれるわね」
この先、仕事をしながら家事をするのは、なかなか骨が折れそうだ。限られた時間の中で、手を抜くところは上手に抜かないと、体力が続かないかも知れない。
「みんな、仕事して、子育てして、家事して、すごいなぁ」
沙羅は、共働きをしているママ友の顔を思い浮かべ、尊敬の念を送る。
「さてと、美幸のお迎えに行きますか」
壁かけ時計は、午後7時45分を指している。
今から美幸を迎えに行けば、塾の授業が終わるちょうどいい時刻だ。
エプロンを外し、ダイニングの椅子に掛けた。そして、薄手のカーディガンを羽織り、ポケットにスマホと小銭入れを入れる。
「あとは鍵、鍵っと」
お出かけ用のバッグから、家の鍵を取り出すと、家の電話が鳴り出した。
「はい、はい、今出ますよ」
出かけるときに電話が鳴る不思議な法則でもあるのかと、疑いたくなる現象だ。
受話器を持ち上げると、待ってましたとばかりに声が聞こえて来た。
『あ、沙羅さん。政志居る?』
政志の母親、美津子のいままで通りの様子に、先日の帰省の時に政志は、離婚の話をしなかったのだと、推測出来た。
美幸も一緒に行ったのだから、話す機会を見つけられなかったのだろうと沙羅は思った。
「お義母さん、ご無沙汰しております。政志さん、今日は用事があるとかで遅くなるって言っていました」
『そうなの? 携帯にかけたんだけど、出ないからどうしたものかと思って。それでね、この前、美幸がケガしたじゃない。その後、元気にしている?少しは良くなったの?』
と、弾丸のような美津子のおしゃべりが続く。沙羅はじりじりとした思いで受話器をにぎる。
「ご心配ありがとうございます。おかげさまで、美幸は不便はあるようですが元気です。今も塾に行っているんですよ。あの、すみません。私、美幸を迎えに行かないといけないんです。政志さんが帰って来たらお義母さんから電話があったと伝えておきますので……」
『あら、こんな遅い時間までご苦労様ねえ。それで、美幸は志望校に行けそうなの?』
「ごめんなさい。後でかけ直します。失礼します」
無理やり話しを切り上げ、やっとのことで電話を切った。
「やだ、遅くなっちゃうじゃない」
時計をにらむと、沙羅は慌てて玄関を飛び出していく。
◇ ◇ ◇
「さようなら、気を付けて帰るのよ」
「はぁい。先生ありがとうございました」
美幸の通う大手進学塾は1クラスが15〜20人。それが、ABCDEと偏差値別に5クラスあり、6年生だけでも100人弱の生徒が在籍している。
ビルの前は、授業を終えた子供たちとお迎えの親で、ごった返していた。
さながら、ラッシュアワー時の駅ホームのような状態だ。
美幸は人混みの中で、キョロキョロと政志の姿を探していた。
「お父さん、まだ来ていないのかな……」
カバンの中をゴソゴソとかき回し、スマホを取り出した。塾のルールで授業中はオフにしていた電源を入れる。
政志から、メッセージが届いているのでは? と、スマホの画面を見つめながら、起動するのを待ちわびていた。
ポンッと後ろから肩を軽く叩かれた感触に、美幸は政志かと思い振り向く。
しかし、後ろにいた人物は美幸が期待していた政志では無かった。見知らぬ人に肩を叩かれた美幸は訝しげに眉を寄せた。
「誰ですか?」
フフッと含みのある笑み浮かべたのは、片桐だった。
「こんばんは、佐藤美幸ちゃんで合っているわよね。わたしは、あなたの新しいママになる人よ」
「ナニ言っているんですか⁉」
突拍子もない告白に、美幸は目を見開く。
そんな美幸に向かって、片桐は自慢気に語り出した。
「わたしはね、あなたのパパの恋人なの。それでね、もうすぐパパと結婚するから、わたしがあなたのママになるっていうわけ」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる片桐を前に、美幸は唇を引き結ぶ。
片桐から、母親になる気なんて微塵も感じられない様子に、ただ単に嫌がらせをしに来たのだと思った。
そして、「お父さんは、お母さんとの約束を破ったの」と言ってた時の沙羅のせつなげな表情を思い出していた。
最近の両親の不仲の原因がこの女のせいだと理解する。
手の中のスマホをタップして動画モードに切り替え、片桐にスマホを向けた。
キッと強い視線でにらみ、落ち着いた口調で言い放つ。
「バカなの? アナタがわたしのママになる日なんて、絶対に来ないから」
美幸に煽られ、カッとなった片桐が目を見開き、手を振り上げた。
「なにを生意気な!」
その瞬間、美幸は大きく息を吸い込み、大声で叫ぶ。
「キャーッ。助けて! 頭の変な女に殴られる!!」
周りに居た人たちの視線が一斉に片桐に集まった。
片桐は振り上げた手の行き場を無くし、忌々し気に美幸を睨みつける。
近くにいた父兄が心配そうに美幸へ「大丈夫?」と声を掛けてくると、分の悪くなった片桐は踵を返して、その場から逃げ出すしかなかった。
美幸は、その後ろ姿も逃さないように見えなくなるまで、スマホで撮影を続けていた。
片桐の姿が見えなくなり、美幸はホッと息をつく。
スマホのファイルに動画を保存した後、すかさずメッセージアプリを確認すると、政志からのメッセージが残っていた。
『用事が出来て、迎えに行けなくなった。代わりにお母さんに迎えを頼んだよ』
「お父さん……」
ドラマやマンガで見た浮気は、結婚しているのに、他の人と恋人同士になるという事だった。
あの女は、恋人だと言っていた。そして、結婚するとも……。
優しいお父さんが、浮気をしていた。
家族を裏切り、お母さんを悲しませていたのだ。
浮気相手の写真を隠すようにスマホをカバンに仕舞った。
声を掛けてくれた父兄に「ありがとうございました」とお礼を言って別れ、辺りを見回すと、息を切らして走ってくる沙羅の姿を見つける。
「お母さん!」
ケガの無い方の手を大きく振り、沙羅を呼ぶ。
「遅くなって、ごめんね」
「そうだよ。遅いよ! でも、コンビニでアイス買ってくれたら、怒らないでいてあげる」
美幸はわざと頬を膨らませ、怒っているフリをした。
その様子に沙羅はクスリと笑う。
「もう、調子の良いこと言って、食べるのは、お風呂出てからよ」
「えっ、買ってくれるの?」
「食べたいんでしょう」
「お母さん、大好き!」
お父さんが、家族を裏切ったのなら、お母さんだけが自分の家族なのだ。
お父さんの恋人だと言っていた女が映る写真を見たらきっとショックを受けるだろう。だから、お母さんには見せられない。
美幸は、甘えるように沙羅の袖口をそっと摘まんだ。
それに気づいた沙羅はふわりと微笑む。
「お母さんを悲しませるお父さんなんて嫌い」と心の中でつぶやいた。