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「先にご飯食べちゃいましょう」
テーブルの上には、酢豚やポテトサラダなどの二人分の食事が並べられている。
塾から帰って来たばかりのこの時間、いつもの美幸なら「お腹空いたー」と急いで椅子に座り、塾であったことをしゃべりだすのに、今日は「はぁー」と、大きなため息を吐いて、だるそうにテーブルに肩肘をついている。
沙羅は、心配そうに美幸を覗き込む。
「どうしたの? 塾で何かあった?」
「ううん、ちょっと疲れただけ」
「そう、それならいいけど、具合が悪いとかじゃないわよね」
美幸のおでこに手を当て、熱がないか確認した。
「腕の骨が折れている以外、ぜんぜん平気」
美幸は、おどけてギブスを見せ、心配かけないように作り笑顔を返す。
「ご飯食べたら、お風呂に入って早く寝ましょう」
「アイス食べるのを忘れてるよ」
「ふふっ、それ、大事よね」
「うん、大事!すっごい大事」
「じゃあ、先ずはごはんね。いただきます」
「いただきます」
食事を始めても、美幸は普段と違い黙々と食べ進め、時折、考え込むように手を止めている。
美幸の様子が気に掛かるが、言いたい事があれば先に話すだろうし、しつこく聞いたら余計に話さなくなりそうだ。
もう少し様子を見て、それとなく訊ねてみようと沙羅は考えた。
「あっ、そうだ。9月からお仕事始めるの」
その言葉に、美幸はパッと顔をあげ目を輝かせる。
「どんな仕事するの? ケーキ屋さん? パン屋さん?」
美幸の食べたい物限定のお店屋さんチョイスに沙羅はプッと吹き出す。
「ごめんね。食べ物屋さんじゃなくて、お掃除のお仕事なの」
「なんだぁ。お土産でケーキやパンが食べれると思ったのに」
美幸は、がっくりと肩を落とす。
いつもの調子が戻ってきて、沙羅はホッと胸をなでおろした。
玄関の方からガチャっと、ドアを開ける音がする。政志が帰ってきたのだ。
すると、美幸が食事も途中で立ち上がる。
「ごちそうさま。わたし部屋で休んでる。お風呂のときに声かけて」
そう言って、美幸はスタスタと、リビングから出て行ってしまった。
リビングに入って来た政志は、ネクタイを緩めながら、あたりを見まわした。
「ただいま。あれ⁉ 美幸は?」
「おかえりなさい。美幸は、塾で何かあったみたいで、部屋に……」
「そうか、迎えに行けなくて悪かったな。実は、弁護士の先生と連絡が取れて、会って来たんだ」
「弁護士に依頼したんだ」
「ああ、財産分与と慰謝料についてお願いした。……それと、片桐に手切れ金を渡して、けじめをつけようと思っている」
「そう……」
政志の話しを聞いて、沙羅は口元に手を当て考え込む。
興信所から受け取った調査報告書を読んだ内容をつなぎ合わせた結果、わかった事がある。
政志に対して片桐が望む事は、子供の父親になってもらい、自分と子供を養わせる事。すなわち体のいいATMだ。
政志の勤めるHANA HOMEでは、営業成績に応じてインセンティブが付く。営業成績の良い政志は、同年代と比較してもかなりの高収入だ。
それゆえに片桐に目をつけられたのだろう。
政志との結婚にこぎつければ、それなりの生活ができるのは、今の暮らしぶりが証明している。
片桐は政志の稼ぎを狙って、色仕掛けをしてきたのだ。
結婚すれば手に入れられる金額に比べて、わずかな手切れ金を渡されて、おとなしく引き下がるとは思えない。
「ねえ、弁護士同伴で片桐さんと話しをする時、私も同席させてほしいの」
沙羅から意外な提案をされた政志は、驚きのあまり言葉が上手く出てこなかった。
「あ、うん……まさか、同席してもらえるなんて思わなかった」
「私も片桐さんには、話があるのよ。日程調整してね」
それは、もちろん慰謝料の請求だ。
こちらは、相手の素性や家族構成まで調べをつけてある。
政志のように呑気に構え、相手に付け入られるようなマネはしない。
離婚前にメールで相談を持ち掛けていた弁護士にも当たりをつけ、興信所の調査報告書をもとに慰謝料請求の内容証明を頼んだところだ。
椅子に座り、手持ち無沙汰にしている政志に向かって、沙羅は声をかける。
「あ、夕食は冷蔵庫にラップしてあるから、自分で温めて食べてね」
今までは椅子に座っていれば、目の前に温かい夕飯が並べられていた。
政志は、沙羅の言いように戸惑う。
「えっ⁉ ……ああ、わかった」
「それと、私、来月から仕事が決まったの。いままで通りには、家事が出来ないから、Yシャツは自分でクリーニングに頼んでくださいね」
沙羅は、それだけ言い終えると自分と美幸の分の食器をキッチンへ下げに行く。
何も置かれていないダイニングテーブルを何とも言えない気持ちで、政志は見つめ「ふう」と息をついた。
カウンターの向こうで洗い物を始めた沙羅は、妻から同居人として一線を引いた態度だ。
離婚という現実が、ジワリと政志の胸に沁みてくる。
◇ ◇ ◇
片桐に会った翌日、美幸は塾の教室でぼんやりと暗くなった外の景色を眺めていた。
いつの間にか授業が終わり、教室の中が騒がしくなる。美幸は、もぞもぞとリュックの中に教科書や筆箱を仕舞い、スマホの起動ボタンを押してから立ち上がる。
教室の出入口に差し掛かったところで講師に捕まってしまった。
「佐藤、授業集中していなかっただろ。今日、やったところの復習をしっかりやっておくように」
授業中の態度を塾の講師に指摘された美幸は、ガックリと肩を落とした。
「先生、ごめんなさい。やっておきます」
「今の時期、気を抜くと後で大変だぞ」
「はい、気をつけます」
美幸は、重い足どりで教室を後にする。
他の子供たちが急ぎ足で廊下を走り抜け「コラッ、走らない」と講師の声が響く。
人の波に流されるようにビルの外に出ると、ガードレールの手前にスーツ姿の政志が居た。仕事帰りに迎えに来たのだ。
「おつかれ、さあ、帰ろうか」
にこやかに声を掛けられても、返事をしたくない。
美幸は、視線を逸らすようにうつむいて「ん、」とだけ言う。
「どうした? 昨日から元気がないみたいだな。塾で何かあったのか?」
政志の言葉に、イラッとさせられる。
「《《塾では》》、何もない」
「そうか、困った事があるなら相談に乗るから何でも言っていいよ」
政志がそう言った途端に、美幸は「はぁ~」とわざとらしく大きなため息を吐き出す。そして、キッと顔を上げ、政志へ強い視線を向けた。
「じゃあ、言うけど。昨日、塾を出たところでパパの恋人だって言う人に、絡まれたんですけど!」
政志は言葉を無くし、顔がみるみる青くなる。
「頭のおかしい女がママになるとか言ってバカじゃないの。すっごいサイアク!」
怒りと軽蔑に満ちた目を美幸に向けられて、政志は言い訳も出来ずに立ち竦む。
「最近、お母さんの様子がおかしかったのって、お父さんのせいだよね。お母さん、大切な約束を守ってもらえなかったって、すっごく傷ついていたよ。お母さんを悲しませて、サイテー!!」
「美幸……」
「家族裏切って、変な女と何やってんの? マジ終わってる……キモい」
父親の事が好きだった分だけ、嫌悪感が募る。
いろいろな感情が入り交じり、胸が重苦しく感じられた。
じわりと、瞳が潤み出す。
それでも美幸は唇を噛みしめ、政志をにらみ続ける。
「ごめん、お父さんが悪かった。何も言い訳できない」
娘から軽蔑の視線に、政志は浅はかな自分を思い知る。
軽い気持ちで始めた浮気。
大切な家族を大切にしなかった代償は、あまりにも大きく、今となっては、取り返しのつかない所まで来てしまったのだ。
「お母さんを悲しませる、お父さんなんて嫌い! 大嫌い!」
娘にここまで言わせてしまった罪悪感に苛まれる。だが、身から出た錆なのだ。
「ごめん。お母さんに何度でも謝るよ」
美幸は無言のまま政志に背を向け、沙羅の元へと歩き出した。
ガチャっと玄関ドアの開く音に、キッチンで洗い物をしていた沙羅は手を止めた。
パタパタと足音がして、美幸が小さな声で「ただいま」と言いながらリビングに姿を現す。その顔は泣いた後の顔だ。
「美幸、どうしたの? お父さんが迎えに行ったんじゃなかったの?」
「お母さん……」
美幸は顔を歪ませながら、助けを求めるように沙羅に縋りつく。
小さい頃は、何かある度にこうして泣きついていたけれど、小学校高学年になってからは、こんな状態になる事などなかった。
どうしたものかと、おたおたして辺りを見回してしまう。
すると、リビングの入り口から政志が沈んだ表情でこちらの様子を窺っているのに気付いた。
「美幸……」
政志の呼びかけに、美幸が肩をビクリと震わせる。
その様子に、ふたりの間でに何かがあったと思った。
沙羅は、美幸の背中に手をまわし、大丈夫だよと優しく撫でる。けれど、政志に向けた目つきは険しかった。
「政志さんは、先にお風呂入ってください」
「しかし……」
政志の弁明や言い訳など聞きたくなかった。いまは、美幸のケアを最優先にしたい。
厳しい視線で政志の言葉を遮り、部屋から出ていくように促した。
政志は諦めたように細い息を吐き出し「わかった」とだけ言うと廊下へ消えていく。
「もう、大丈夫よ。何があったの?」
沙羅が訊ねても、美幸は首を振るばかりで、頑なに口を開こうとしない。
政志との諍いの原因を言えば、沙羅を傷つけると思っているからだ。
でも、ひとりで抱えるには重すぎる出来事に、抑えきれない涙が溢れ出す。
「お母さん……もう……やだよぉ」
ただならぬ美幸の様子に、沙羅はどうしていいのかわからず戸惑ってしまう。それでも、差し出した手は、しっかりと美幸を支える。
「お母さんは、何があっても美幸の味方だから、大丈夫だよ」
「うん……」
沙羅は、泣きじゃくる美幸を抱きしめる事しか出来ないでいた。
「困っている事があるなら、お母さんは手助けしたい。美幸が、お母さんにして欲しい事ある?」
「……ない。自分で……どうにかする」
少し頑固な所がある美幸は、こうと決めたらテコでも動かないのだ。
美幸の憂いを取り除くには、その原因である政志との間で起きたトラブルの内容を知らない事には、解決に繋がらない。それなら、無理に美幸から聞き出すよりも政志から聞けば、どうにかなるのではと考えた。
「そう。大変だったら、いつでも言ってね。お母さん待ってるから」
「うん……」
小さな肩を震わせて涙する美幸に、沙羅の胸は痛む。
美幸の事を思い、その笑顔を守るため、半年間は一緒に暮らすという選択だった。
しかし、実際には、美幸は泣いている。
それも政志と何かあった様子だ。
自分の選択は、間違いだったのでは?と不安が広がる。
「お母さん……」