テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
あれから、三日が経った。
圭吾は実家に残っていた。いや、「鏡の中から戻ってきた存在」こそが、今ここにいる。
母は変わらず優しく接してくれる。だが、どこかぎこちない。
まるで、目の前にいる息子が「自分の知っている圭吾ではない」と気づいているような、そんな沈黙。
夜、納戸の前に立った。
あの部屋の扉は、今も固く閉じられている。けれど、圭吾には感じる。
中に、もう一人の自分がいることを。
扉にそっと手を触れる。
「……まだ、そこにいるのか?」
返事はない。だが、圭吾の中に微かに響く“もう一人”の気配がある。
それは、言葉にならない叫び。――**「戻してくれ」**という、無垢で、痛みを含んだ声だった。
1975年。
父と母は、当時“生まれてはいけない子”を持っていた。
家柄、立場、地域の目。全てが「その子」を許さなかった。
「この子は、世に出すわけにはいかないの」
母は泣きながら言った。
父は苦悩しながらも決断した。
――その子を閉じ込めることを。
だが、年月が経つうちに、二人は罪を忘れようとした。
新たに“圭吾”という名を持つ子を作り、古い記憶は「鍵のない部屋」に封じ込めた。
それがこの悲劇の始まりだった。
その夜、圭吾は一人で納戸の扉を開けた。
誰にも言わず、ただ静かに鍵を回した。
ぎぃぃ……
部屋の中に、影があった。
鏡。
そして、その前に立つ――もう一人の高梨圭吾。
「やっぱり……君は、俺だったんだな」
「……お前に、“なりたかった”んだよ」
本物の“鏡の中の圭吾”は、少年の姿ではなかった。
成長していた。こちらと同じ年齢。つまり、もしあのまま生きていたなら、こうなっていたはずの姿。
二人は、鏡を挟んで向かい合った。
「俺たちは……どっちが“本物”なんだろうな」
「そんなの、もうどうでもいい。お前が生きてるなら、それでいいよ」
「……お前、優しいな」
「お前もな」
ふたりは静かに、鏡の表面に手を伸ばす。
指先が触れ合う――そう思った瞬間、鏡が砕けた。
ぱりん――
鏡の破片が宙に舞い、その中にふたりの姿が同時に映っていた。
次に気づいたとき、部屋の中には**ひとりの“高梨圭吾”**が立っていた。
どちらだったのかは、誰にもわからない。
けれど彼は静かに扉を閉じ、母に向かって言った。
「ただいま、母さん」
母は泣きながら、彼を抱きしめた。
彼女にはわかっていた。
この子が――どちらでもあり、どちらでもないということが。
高梨圭吾は、小説家になった。
デビュー作のタイトルは**『鍵のない部屋』**。
読者の間で話題になったのは、ラストページの一文だった。
あの部屋には、今ももう一人の“僕”がいる。
だけど、彼は僕の中にいる。
ずっと、鍵もなく、光も差すことのない場所で、
一緒に生きている。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!