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あの部屋の扉を開けたのは、たった一度だけだった。
圭吾がまだ赤ん坊だった頃――いや、“最初の圭吾”がまだ、生まれて数ヶ月だった頃の話。
私は、どうしてもその子を受け入れられなかった。
誰のせいでもなかった。
でも、あの子を見るたびに、自分が「女」としてではなく「人間」として崩れていく気がしていた。
あの子には、生まれるはずじゃなかった理由があった。
婚約前の妊娠。親族の猛反対。世間体。
夫――正樹(まさき)も、最初は戸惑っていた。
でも、私が言ったの。
「この子のこと、なかったことにしよう」
言葉にしたとたん、胸が裂けるように痛んだ。
だけどもう戻れなかった。
家の奥の、誰も使わない納戸。
そこに布団を敷き、電気を引き、育児用具を詰め込んだ。
泣く声が外に漏れないよう、扉に毛布を貼り、分厚い板で音を遮断した。
誰にも、話さなかった。
あの子の名前を、役所に届けることもなかった。
でも、私はこっそり名前をつけた。
「圭吾」――静かで、強くて、誰かに必要とされる子になってほしかった。
その子は、ほとんど泣かなかった。
ただ、黙って、じっと私を見ていた。
その目は、「どうして私はここにいるの?」と、何も知らずに問いかけているようだった。
やがて私は、もう一人の子を妊娠した。
正しい手順で、正しい祝福を受けて。
それが、「もう一人の圭吾」だった。
お腹にいる時から感じていた。
この子を産めば、私は“あの子”を消してしまうことになると。
けれど、私は産んだ。
産んで、抱きしめて、愛して、「圭吾」と名付けた。
本来の圭吾が、「影」に押し込まれる瞬間だった。
年月が経ち、私たち夫婦は無言の取り決めをした。
“納戸の部屋には近づかないこと”
夫は何も言わなかったけど、夜中にその部屋の前で立ちすくんでいるのを何度も見た。
あの人も、忘れようとしていた。でも、忘れきれなかった。
そして、数十年後――
“圭吾”が部屋に入った日。
私は直感で分かった。
「帰ってきたんだ」と。
あの子が、もう一人の圭吾が、ようやく“影”から戻ってきたのだと。
部屋に鍵がかかっていたのは、私たちの心だった。
もう一人の圭吾を忘れたふりをすることで、私たちは鍵をかけ続けてきた。
でも、あの子はずっと泣いていたのだ。
扉の向こうで。
圭吾が戻ってきた日。
私は、その目を見てすぐにわかった。
この子は、“ふたりの圭吾”がひとつになった存在だと。
苦しみも、憎しみも、罪も、愛も――全てを受け継いで、前を向いて生きようとしていると。
だから、私は言った。
「おかえり、圭吾」
その言葉だけで、私はようやく母になれた気がした。