扉を開けるとドアベルが軽快に鳴り響き、店の者に来客を伝える。間もなくして若い男性の店員がやって来た。相変わらずスマートな身のこなしだ。急いでいるのに全く慌ただしさを感じさせない。
「いらっしゃいませ! 何名さ……クレハ様!!」
「こんにちは。セドリックさん」
どれにしようかなぁ……あっ、これが例の新メニューか。わー!! 桃のゼリーだ。今日はこれにしようっと。やっぱり一度は食べておかないとね。メニュー表に書かれた新作の文字に心が踊る。ローレンスさんに聞いた時から楽しみにしていたのだ。
「すみませーん! 注文お願いしまーす」
右手を上げて店員を呼んだ。セドリックさんが近くで控えてくれていたのか、すぐに来てくれた。
「お待たせ致しました。クレハ様」
「今日はこちらの桃のゼリーと冷茶をお願いします。新メニュー楽しみにしてたんです」
「ありがとうございます。かしこまりました。すぐにお持ち致しますね」
注文を受けたのにセドリックさんは私の顔をじっと見つめたまま動かない。どうしたんだろう。顔に何か付いてるのかな。軽く自身の頬に触れてみる。特に変わった所は無いと思うけど。
「あの、クレハ様……」
「はい?」
「王太子殿下とのご婚約、おめでとうございます!」
セドリックさんはとても嬉しそうな顔で祝いの言葉を私に伝えてきた。
「セドリックさん……ご存知だったのですか?」
「えっ、ええ……主経由で」
やはりローレンスさんは私の婚約のことを耳にしていたようだ。あれから4日経っている。屋敷の使用人も周知の事だから、ある程度広まっていても不思議ではない。
ローレンスさんからの手紙はまだ来ない。きっとお仕事が忙しいのだろうな。そう思ってはいても、今まで3日と空けずに送られていた手紙が来なくなると心配になってしまう。
「ローレンスさんはお元気でいらっしゃいますか? お仕事が忙しいようで……体調などは崩しておられません?」
「ええ。主はとても元気ですよ! むしろ元気過ぎるくらいで。忙しいのは……まぁ……そうなんですけれど、それもじきに落ち着くかと」
セドリックさんは先ほどの嬉しそうな表情そのままに答えてくれた。本当に機嫌が良さそうだ。
「そうですか、良かった」
体調を悪くしておられるようではなかったので安心した。テーブルの上に置かれた冷水の入ったグラスを手に取り、口に運ぶ。冷たい液体が喉を潤していくのが心地良い。私は小さく息を吐いた。
「クレハ様……」
「何でしょうか」
「あの……クレハ様は殿下との婚約をどう思っておられますか? このような事をお聞きするのは不躾だと承知しておりますが、クレハ様は殿下と面識が無かったと伺いましたので……その……お嫌ではないのですか?」
さっきまでの様子とは打って変わり、セドリックさんは少し躊躇いがちに問いかけた。聞いてきたのはそっちなのに、私が答えを返す事に怯えているように見えた。
「嫌……とかはないです。私も姉もジェムラート家の娘です。貴族として生まれた以上、家の決めた相手と結婚するのは普通です。ただ、その相手が王太子殿下というのは驚きましたが……。私よりも殿下の方はどうなんでしょうかね。他にもっと素敵な方がいらっしゃっただろうに、私みたいなのと婚約なんて……」
同じジェムラート家の娘ならばフィオナ姉様の方がはるかに望まれていただろうな……でも姉様はすでにルーカス様と婚約しているのだから仕方ない。そう言うと、セドリックさんが血相を変えて私の肩を両手で掴んだ。
「殿下は大丈夫です!! というより殿下に相応しいのはクレハ様しかいらっしゃいません! 殿下がクレハ様を気に入らないなんて事はありえませんのでっ……!」
「セ、セドリックさん……!?」
いつも穏やかで落ち着いた印象を受ける彼とは思えない態度に面食らってしまった。
「あっ! も、申し訳ありません。ご無礼を……」
私の驚いた顔を見て我に返ったのか、セドリックさんは肩を掴んでいた手をゆっくりと離す。セドリックさんがおかしい……どうしちゃったんだろう。
「えーと……もしかしてセドリックさんは殿下にお会いした事があるのですか?」
「えっ、いやその……まぁ何度か」
「そうなのですか! 父からとても優秀な方だと聞いております。歳も近いですし、仲良くなれれば良いのですが……」
「こりゃ主の頑張り次第だな。嫌がられていないだけ良かったと思うべきか……」
「え?」
セドリックさんが小声で何か言っているが、よく聞き取れなかった。
「すみません……何でもありません。ご注文の品をお持ち致しますね」
彼はそう言うと、一礼して店の奥に戻っていった。ほどなくして注文したゼリーとお茶が運ばれてくる。セドリックさんのいつもと違う様子が少し引っ掛かったが、とりあえず今は目の前の美味しそうなゼリーに集中することにした。
『とまり木』でお茶をして屋敷に戻ると、時刻は午前11時を過ぎたところだった。自室に入りバルコニーの方を見る。ローレンスさんと手紙のやり取りを始めてから、窓を見るのが癖になりつつある。
「今日も来てないね……」
ガッカリした気持ちがそのまま溜息になって口から溢れ出す。お仕事忙しいってセドリックさんも言っていたじゃないか。お元気でいらっしゃる事が分かっただけでも良かったのだ。自分自身に言い聞かせる。
そもそも、私とローレンスさんは改まって文通をしましょうなんて約束はしていない。何の前触れも無くこの関係が終わったとしても不思議ではないのだ。
こんな子供相手に忙しい時間を割いてまで、手紙を出し続ける義務は無い。ローレンスさんにとっては暇潰し程度のことだったのかもしれないのに、私が過剰に期待し過ぎてしまっただけ……
思考がどんどん悪い方へ傾いていき、やさぐれた感情が沸き出しそうになったその時――
クーックーッという鳴き声と共に、見慣れた美しい赤い鳥の姿が目に入った。
「エリス!!」
急いでバルコニーに出ると、エリスは私の周りをぐるぐると飛び回った。その足にはしっかりと金属製の筒が握られている。私が手のひらを前に差し出すと、エリスは筒をその上にぽとりと落とした。
「ありがとう、エリス」
何だかドキドキする……いつもより鼓動が早い。筒を開けると中には真っ白な封筒が入っていた。私は部屋に戻り、慌ただしく封筒を開けて手紙を読み始める。
『あなたと王太子との婚約は存じ上げております。その件について、あなたに伝えなければならない事があります。明後日、王宮で開催される茶会にて、直接お話する機会を頂けないでしょうか?』
「えっ……」
書かれてある内容に驚愕した。殿下との事を知られているのは分かっていたが、ローレンスさんも明後日のお茶会に出席なさるの? もしかしてローレンスさんは、どこかの貴族なんだろうか……。明後日のお茶会に出席するのはディセンシア家に近しい親戚筋の家や、一部の貴族だけなはずだ。いや、そんな事はどうでもよくて……
ローレンスさんにお会いできる――
どうしよう……鼓動が先程よりも早くなる。
『目印はエリス。彼が私の所まで案内してくれます。……やっと、君に会える』
手紙を読み終えた私は、しばらく生気が抜けたような状態で、何もない壁をただ眺めていた。胸の高鳴りはいまだ治まらない。
「そうだ……お返事書かないと……」
散々悩んで出てきたのは、お会いできるのを楽しみにしていますというありきたりな言葉と、エリスってオスだったんですね、という事についてだけだった……