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『……人生の機微をカメラ越しに見つめ続けてきた男に最高の贈り物』
国内外のフォトグラファーが所属する協会で今年最も活躍した写真家を称える賞を毎年贈っているのだが、今年もどうやら著名なフォトグラファーが貰ったようで、興味があるのかないのか咄嗟には理解できない小さな声を上げたのは、午後からの休診の間に溜まりに溜まっている事務仕事をする為の景気づけと気分転換を兼ねたランチに来ていたウーヴェだった。
ウーヴェがいるのは常連になっているために店に来るだけでいつものテーブルへと案内してくれる行きつけのカフェで、今日もステッキを突きながらやって来た彼をカフェのスタッフが笑顔でいつものテーブルへと案内してくれたのだ。
その案内を受けながら通りすがりにマガジンラックから新聞を抜き取ったウーヴェは、サービスランチが終わってしまった事を教えられて残念だと肩を竦めるが、後でリアも来ることを伝え、注文もその時に一緒にすると笑顔で返して新聞を開く。
少し遅れてやってくる彼女も今日の午後からは書類仕事に追われる事が確定していて二人ともに少しだけ気分が重かったが、二重窓の外の突き抜けるような青空を見た時、せめてランチだけでも外で食べようと意見の一致を見たのだ。
時間が掛かるから先に出ると残してクリニックを出てきたウーヴェは、リアの姿を開け放たれた路面に面した窓から見つけ、駆け込んでくる彼女に手を上げて合図を送る。
「お待たせ、ウーヴェ」
「サービスランチが終わってしまったらしい」
向かいに腰を下ろすリアに肩を竦めて楽しみにしていたランチが終わった事を伝えるとそれならば仕方がない他のメニューを頼もうと微苦笑するが、ウーヴェがテーブルに半分だけ広げていた紙面へと目を落とす。
「有名な写真家?」
「そうなんだろうな。俺は写真に詳しくないから分からない」
リアの素朴な疑問にウーヴェがもう一度肩を竦めるが、その時スタッフが注文を聞きに来たためにクラブハウスサンドとカフェオレを、リアはキッシュとサラダが載ったプレートと紅茶を注文し、再度二人で新聞を覗き込む。
そこに書かれていたのは受賞が決定したフォトグラファーの経歴で、見つめ続けてきたとの言葉が相応しい一人の男の歴史が羅列されていた。
「……旧東ベルリン出身で……あら、この街でも少しだけ暮らしていたみたいね」
「そうみたいだな」
二人の視線が集中する紙面ではカメラを構えつつ穏やかな笑みを浮かべているのを想像させるフォトグラファーの写真が掲載されていて、リアが呟いた言葉に経歴を改めて読んだウーヴェは、旧東ベルリン出身だと一行だけで紹介されているもののそちらでの活躍については一切触れられておらず、もしかすると旧東ドイツ出身という経歴を詳細に書くと不都合なことでもあるのかなとぼんやりと思案する。
「息子も若手フォトグラファーの登竜門である賞を受賞し、親子での受賞になった、か」
父がフォトグラファーならば息子もそうなる可能性が高いのかなと呟くウーヴェにリアが一概にはそうとは言えないが、確かにアーティストなどはその確率が高いかも知れないと返し、ウーヴェの代わりに紙面を読み進めていく。
「ヴィルヘルム・クルーガー。息子はノア・クルーガーですって」
写真展に足を運んだり写真集を見たりすることはあるが特定のフォトグラファーの作品を意識して見たことなどなかったウーヴェがやはり聞き覚えのない名前だと再度肩を竦めるが、カメラで大半が隠れている顔が比較的大きく写された写真を何気なく見、不思議な感覚を抱く。
それは神経を逆なでするような不愉快な物ではなく、どちらかと言えば親和性があり落ち着ける雰囲気に包まれた感覚で、何だと首を傾げて己の深い場所が捉えたそれを追求しようとするが、クラブハウスサンドを運んできたスタッフの声に作業が制止させられてしまい、小さく溜息を零す。
「このノア・クルーガーの写真、ポストカードで店に置いてるわよ」
「え? そうなの?」
二人が覗き込む紙面を同じように見下ろしたスタッフがポストカードを何種類か店に置いてあると告げたため、二人同時に彼女の顔を見上げ、本当かとリアが問いかける。
「ええ。風景が多かった気がするけど動物もあるかしら。カウンターの横にあるわ」
興味があるなら後でどうぞと笑って注文の品をテーブルに置こうとしたスタッフを制止して慌てて新聞を畳んだウーヴェは、この受賞を切っ掛けに写真展が開かれれば見に行かないかとリアを誘うと、それも良いわねと頷きながらリオンとは行かないのかと問われて目を丸くし貴重な異性の友人の顔を見つめる。
「……一緒に行ってもゆっくり見ることが出来ないからな」
「まあ、そうよね……」
どう考えてもリオンは色気より食い気だろうし、絵画や写真の鑑賞時間を堪えられるとは思わないと返されて喉の奥で奇妙な声を発してしまう。
「ウーヴェ?」
「……そう思うだろう?」
「ええ」
だから一緒に行かないかと再度問いかけると写真展の情報などを調べるようにするとリアが笑みを浮かべた為に安堵に胸をなで下ろしてリアに続いてサンドイッチを手に取るが、先ほど覚えた不思議な感覚が脳味噌にこびりついていて、何処で見たんだろうと無意識に呟いてしまう。
「ウーヴェ?」
「あ、ああ……この写真家は誰でも名前を知っている人なのか?」
「え?」
「いや、どこかで見たことがある気がするんだ」
ホットサンドに齧り付く手を止めリアの手も止めさせたウーヴェの一言に彼女も首を傾げるが、折り畳んでウーヴェの横に置かれた新聞を身を乗り出しながら見つめ、カメラに隠れた向こうから笑いかけてくる顔に見覚えがないことを再確認する。
「私は見覚えないわ」
「そうか……勘違いかな」
「かも知れないわね」
今は記憶にあるかどうかよりも目の前にあるサンドとキッシュのランチを食べきることに専念しましょうと、本能の欲求に勝てない顔で片目を閉じるリアにウーヴェも頷き、確かにそうだとホットサンドに齧り付くのだった。
本能を満たす食事を終えて再度紙面をテーブルに広げたウーヴェは、何故初めて見る隣国に拠点を置いて活躍する写真家が気になるのかが理解出来ずに若干の苛立ちを覚え、彼について書かれた記事総てに目を通し始める。
その集中力にリアが慣れているからか溜息を一つ零して席を立ってスタッフに声を掛け、カウンターの傍の小さなラックに差し込まれているポストカードを手に取る。
それは、紺碧の海を気持ちよさそうに泳いだり楽しげに水面から飛び上がっているイルカの写真で、海を照らす太陽と日差しを反射させる水面や水しぶきまで捉えられていて、この写真が撮られたときにすぐ傍にいたかのように錯覚させるもので、気持ちよさそうに泳ぐイルカについリアの顔が綻んでしまう。
「……それがさっき言ってたノア・クルーガーの写真」
「なんだか楽しそうな写真ね」
他にも写真面ではなく宛名を書く面に小さく彼の名前が印字されているポストカードがあり、総てを手に取ったリアはランチ代と一緒に払うからと断って席に持って帰る。
その頃にはウーヴェは記事を総て読み終えていて満足そうに溜息を吐いていた為、これがポストカードだと紙面の上に広げると、確かに動物写真が多いんだなと素っ気なく聞こえる感想が返ってくる。
「そうね。これ、カナリア諸島で撮ったらしいわ」
「へえ」
自分たちの新婚旅行先で撮影された写真なのかと少し興味を引かれた顔でポストカードを見下ろしたウーヴェは、よく分からないが楽しそうに見えるという事はフォトグラファー自身も楽しかったのだろうと答えてリアを見、彼女の目を丸く見開かせる。
「リア?」
「考えたこともなかったわ……。撮影した人の感情も写るのかしら」
「写ってもおかしくないと思わないか?」
どんな物でも人によって作り出されるものには何かしらの感情が籠もっているだろうが、それがアーティストと呼ばれる人達のものであれば尚更だろうと新聞を畳みながら少しの敬意を込めてウーヴェが呟きリアも同意するように頷く。
「このポストカードを買うのか?」
「ええ、何か気に入ったの」
「そうか」
クリニックに飾るのならば経費で出すし自宅に飾るのなら俺が買うと眼鏡の下で片目を閉じるウーヴェに一瞬躊躇ったリアだったが、ありがとうと笑みを浮かべて頷き、ランチ代と一緒に払うことを伝えてある、クリニックに戻ったらランチ代を払うから立て替えてて欲しいと伝え、ウーヴェが手にした新聞を受け取ってマガジンラックに返すために席を立つ。
一足先に店を出たリアは日差しの強さから初夏を通り越した夏の気配を感じ取り、今年の夏は暑いのかしらと掌で日差しを遮りながら空を見上げるが、ふと何かが気になって視線を地上へと戻し、さっきと同じように、だが口元には親しげな笑みを浮かべて手を上げる。
「リオン!」
リアがいるカフェから少し離れたインビスの前、くすんだ金髪を首の上で一つにまとめ、楽しそうに誰かと談笑している顔が少しだけ見えた為、もう一度リオンと呼びかけてみるものの彼女の声に訝るような視線を投げかけてきたのはその背中ではなく彼女の周囲にいた人達だけで、人間違いの羞恥から頬を赤くして俯いたリアは店から出てきたウーヴェにどうしたと問われて長い髪を乱すように頭を左右に振る。
「何でもないわ」
「そうか?」
リアの様子に訝るように小首を傾げたウーヴェは少しだけ傾いた視界に意識しなくても目に飛び込んでくるようになったものを見かけ、先ほどの彼女と同じように声に出してその名を呼ぶ。
「リオン!」
ウーヴェの声にならば反応するはずと己の時とは違う安心感に赤く染まる頬に片手を宛がったリアだったが、その声にもリオンは振り返ることがなく、隣にいる顔の半分近くが隠れている夏向けの帽子を被った女性と腕を組んで二人の前から遠ざかって行ってしまう。
「リオンよね、あれ……」
「そうだと思うが……」
それにしては隣にいて親しげに腕を組んでいた女性が気になるとリアが見て見ぬ振りをしていた事に気付いていたウーヴェの呟きに彼女が驚きの顔を向け、そんな人いたかしらと上手くはない嘘をついてみるが、大きな帽子を被った女性がいただろうとぽつりと呟かれて息を飲んでしまう。
「き、きっと見間違いよ!」
だってあなたの声に反応しなかったのだからとウーヴェの眼鏡の下の双眸から表情が消えていくのを何とか引き留めようとリアが慌てふためきながらたった今見たのは人間違いだと言い募るが、美女とのデートなど聞いていないとウーヴェが呟いた瞬間、総てを諦めた顔で溜息を零す。
「……リア、仕事に戻ろうか」
「え、ええ、そうね」
溜まっている書類仕事を片付けましょう、そして夕方あなたを迎えにリオンが来れば締め上げてやるんだからとウーヴェと似たり寄ったりの表情で低く呟いたリアは、ウーヴェに預けていれば文字通り握りつぶされてしまうかも知れないポストカードが入っている袋を素早く取り上げると、先に帰るからゆっくり帰ってきてとウーヴェの返事も聞かずに掛けだしていく。
一人取り残される形になったウーヴェはスマホを取り出してメッセージなり電話なりをリオンに掛けようとするものの、腕を組んでいた女性の顔が心底彼といる事を楽しんでいるように思え、今は笑い話に出来るウーヴェの嫉妬心がもたらした小さな事件を思い出してしまい、何の動作をすることもなくスマホをポケットに戻し、彼女が言うようにクリニックに来た時に話を聞けば良いと溜息に重い決意を込めて石畳に落としたウーヴェは、立ち去ったリオンに背中を向けるようにクリニックに戻って行くのだった。
「……まさかウィルも受賞するなんてな」
「あら、私は信じてたわ」
何しろあなたの父であり師匠でもある人なんだからとノアの腕に腕を回して少女の頃から変わっていないと称される笑顔で頷いたのは、インビスの店先に並んだ新聞から己の夫が写真家として受賞できることが一つのステータスになっている賞を彼女の予想通りに手にした事を知ったハイデマリーだった。
「新聞にウィルの経歴が書かれていたけど……やっぱり旧東ドイツ時代のことやこの街でのことは詳しく書かれていなかったな」
ノアが投げかけたのは素朴な疑問だったが、己の腕に絡められている腕から緊張を感じ取り、どうしたと母の顔を覗き込んだ息子は、そこに帽子が落とすにしては暗い陰を見出して驚きに言葉を無くす。
「マリー?」
「……ノア、ウィルにベルリンやこの街の話をしてはダメよ」
私は彼よりは少しだけマシな気持ちで話を聞けるが、今でもウィルは感情的になってしまうのだからと夫と良く似た顔を見上げていつになく真剣な顔で息子に釘を刺した母は、気持ちの切り替えを図ろうとしてノアの腕を離すと、両手を突き上げて伸びをする。
その時、横を歩いていたステッキをついた観光客らしき初老の男に腕がぶつかってしまい、はずみで男がよろけてしまうのをノアが咄嗟に伸ばした腕で支えると、ごめんなさいと男に謝罪をするが、男がジロリと彼女を睨んだ為にもう一度申し訳ないと告げてバッグから取り出したサングラスを掛ける。
「……気を付けてくれ」
「ええ、失礼したわ」
ぶつかってしまったことへの謝罪を受け入れてくれてありがとうと小さな声で礼を言った彼女だったが、周囲のざわつきの中に己の名前を幾つも聞き付けてしまい、同じ場所に留まっているとファンや野次馬に囲まれてしまう危惧からノアの腕を引いて路地に向けて歩き出す。
「待てよ、マリー」
「行くわよ、ノア」
男がステッキを頼りに何とか体勢を立て直したのを確認し謝罪の代わりに軽く頭を下げたノアは、男が周囲のざわつきに反応して目を丸くしたことに気づき、幼い頃から何度も経験している場面への対処法を思い出しながら足早に立ち去ろうとする母を追いかける。
「ねえ、今の女の人、女優のハイディ・クルーガーよね? 映画祭に参加するために来ているのかしら」
ステッキを握る手に力が篭っているからかぶるぶると手を震えさせながら立ち去ってしまったノアとマリーの背中を見るーと言うよりは睨み付けていた男は、間近で囁かれる名前を口の中で転がすが、それがまるで劇薬か何かだったかのように目を限界まで見開いてしまう。
「……ハイデマリー……!?」
忘れたくても決して忘れることのできない笑顔と名前を脳裏に浮かべ、本当に彼女なのかと自問するが、あのくすんだ金髪とロイヤルブルーの双眸はどれだけ月日が流れてもあの頃と全く変わっていない煌めきを発していた。
己がこのように足に不自由さを抱えるようになった原因、それを作り出した女と旅行に来た街で再会できたのは、きっと神の思し召しだろう。
この機会を無駄にするなと神か悪魔が囁いているように感じた男は、ステッキをしっかりと握りしめつつ足早に立ち去った彼女と、同じ色合いの髪と目をしていた若い男ーきっとそれは息子だろうーの後姿を思い描きながら予約してあるホテルに向かうために踵を返す。
天が授けてくれた僥倖を逃すはずなどなかった。
彼女に己の過去の言動の責任を取らせる絶好の機会が訪れたのだ。
その為に少し準備が必要だったが、映画祭まではまだ時間があり、その準備を整える時間もあった。
そうと決まればこんなところでゆっくりしている暇などなかった。
気持ちについてこない足を叱咤しつつホテルに戻った男は、出かけてくると言ったのにすぐに戻ってきたことを不思議に思いつつも何も言わずに一礼するホテルのフロントスタッフに見向きもせずに逸る気持ちのままエレベーターに乗り込むのだった。