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初夏の太陽は徐々に遊ぶ時間を長くして行く子供のようで、つい何ヶ月か前までならばとっくに寝床に帰っていたはずなのにそろそろ夕方と呼ばれる時間になってもまだ明るかった。
午後の書類仕事を無事にリアと終えたウーヴェは、労ってくれる甘いビスケットと甘さ控えめのココアのカップを片手にお気に入りのチェアに座って雑誌を読んでいたが、脳内では午後の間中ずっと思案していた不思議な感覚とリオンと仲良く腕を組んでいた女性の姿が交互に手を取り合って不愉快なダンスを踊っていた。
どれだけ追い払おうとしても脳内で繰り広げられるそれに珍しく舌打ちをしてしまい、小さな咳払いの音に我に返って再度舌打ちをしそうになるのをグッとこらえ、チェアの肘置きを一つ叩く。
「……ウーヴェ」
「……リオンが悪い」
俺が今こうして苛々するのも何もかもリオンが悪いと頬づえを付いてそっぽを向くウーヴェにリアが何度目かの溜息をこぼすが、ウーヴェのこんな子供っぽい姿など滅多に見られないがだからといって見せられても精神衛生上よろしく無いことは明白で、もう一度溜息をついてマグカップを口元にあてがった彼女は、そんなに気になるのなら聞いてみればどうだと片目を閉じる。
「……もうすぐ来る」
「そうね。その時に聞いてみましょうか」
私も気になっているし午後の間中のあなたの不機嫌さに付き合わされた事へのお詫びは絶対にしてもらうわと、リアや姉をはじめとした世の女性には何があっても逆らえないのでは無いかと思わせてくれるリアの笑みに目を瞬かせたウーヴェだったが、己の今日半日の言動を振り返り、反省すべき事だらけだと思い到ると同時に咳払いをする。
「……不機嫌になって悪かった」
「明日まで引きずらないでね、ウーヴェ」
「ああ、約束する」
この不機嫌さは今日で終わりにすると約束したウーヴェにリアも満足そうに頷き今日のビスケットの味はどうだと問いかけるが、その声をかき消すようにドアがノックされて二人同時に飛び上がりそうになる。
そのノックは相も変わらずのもので到底ノックとは呼べない代物だったが、本人がノックと言い張る為に二人も諦めてしまっていたのだ。
その殴り付けるような音にこれまた二人同時に溜息を零しどうぞとリアが入室の許可を与えると、ハロ、オーヴェ、リアと陽気な声を上げながら金色の嵐が飛び込んで来る。
「……」
「……お疲れ様、リオン」
いつもならば呆れて何も言えない顔でそれでも快く出迎えてくれる二人なのに今日に限っては何故か不機嫌なオーラを身に纏うだけではなく明からさまにそれをリオンにぶつけてきた為、一体どうしたと蒼い目を丸くする。
「オーヴェ?」
「……何だ」
「いや、何か機嫌悪い?」
しかもお前だけではなくリアもだとウーヴェの背後に素早く回り込んだリオンがいつものようにただいまのキスを頬にしようとするが目には見えない不機嫌さに遮られ、口を尖らせながらもウーヴェをチェア越しに抱きしめる。
「何だよー」
「……今日のランチは美女と一緒だったのか?」
一体何なんだと流石のリオンも意味が分からない思いから不機嫌さを滲ませ始めた為にウーヴェが視線だけで背後を振り返り、ランチの後にカフェの店先で見かけた光景を脳裏に思い浮かべながら問いかけると、リオンの目が驚きに丸くなるが良く分かったなぁと呑気な声を上げる。
「楽しそうに腕を組んで歩いていたな」
「へ!? 近くにいたのか、オーヴェ!?」
それならばどうして声を掛けてくれなかったのだと逆にリオンがウーヴェを詰るように声を大きくした為、ウーヴェが勢い良くチェアの上で身体を捻ってリオンを睨む。
「声を掛けたのに無視をしたのはお前だろう!?」
リアにとっては珍しいが最近では見慣れてきたウーヴェの激情を目の当たりにしたリオンがその由来へと素早く思考を巡らせるが、己の思いとウーヴェのそれが一致している自信が無かった為に今日の午前の診察は患者の家にでも行ったのかと、ウーヴェが問いかけてきた事とは一見関係のなさそうな質問を返し、今日はここで診察していた、往診には行っていないと冷ややかな声に答えを教えられる。
ああ、いつかもこんなことがあったとウーヴェが激情の裏で冷静に呟いた時、あれはシスター・ゾフィーだったが今日は流石に誰だか分からないと眉を寄せる。
結婚しこれからの人生を共に同じ方を向いて歩んでいこうと誓い合ったが、それを破ってしまうほど魅力的な女性だったのではないかという、冷静に考えればありえない疑問が脳裏を巡り、それを悟られたくない為に苛立っている顔を見せているのではないのかという追い詰められた思考にウーヴェのターコイズ色の双眸が染まり出す。
己を睨みつけながら眉を寄せるウーヴェに何を言えばいいのか分からなかったリオンは助けを求めるようにリアへと顔を向けるものの、似たり寄ったりの表情で見据えられていることに気付いて苛立たしそうに髪を掻き毟る。
「あー、もー、クソ! 何なんだよ、全く!」
シャイセと怒鳴りつつウーヴェの横にどかっと腰をおろして足を組んだリオンは、二人の視線を受けつつ本当に一体何なんだと何度目か分からない苛立ちをぶつけ、室内に重苦しい沈黙が流れる。
「あのさぁ……さっきお前が言った美女っての、どこで見た?」
「……いつものカフェから少し離れた所だ」
楽しそうに美女と俺が腕を組んでいたらしいがそれを見たのはどこだとリオンの声に珍しく冷淡な色が滲みウーヴェがひやりとしたものを感じるが、己の不機嫌さに終止符を打つ為には知らなければならない事だと腹を括り、隣で冷めた目をしたリオンの横顔を見つめる。
「……ちょっと待ってろ」
ウーヴェの返答にリオンの蒼い目が一瞬見開かれるが、スマホを取り出したかと思うと二人が凝視する前で何処かに電話を掛け始める。
「リオン……?」
「待てって言っただろ?……ああ、悪ぃ。ちょっと電話代わるな」
ウーヴェが名を呼ぶのを冷たい目つきで見つめ返して制止したリオンだったが、電話の相手が出たことに気付いて短く言葉を交わすと、通話が繋がったままのスマホをウーヴェに差し出す。
「ほら、出ろよ」
「?」
「良いから出ろって」
いつもとは全く違うリオンの冷酷にも聞こえる声は拒否させない強さも持っていて、微かに震える手でスマホを受け取ったウーヴェは、緊張にかすれる声で電話を代わったことを伝え、聞こえてきた女性の穏やかな声に最初は何を問われたのかも分らなかったが、如何なさいましたかウーヴェ様と再度問われてその声の主に気付き、スマホを耳から離しながらリオンを呆然と見つめてしまう。
『ウーヴェ様?』
「……分かったか?」
『リオン? ウーヴェ様に何かあったの!?』
己の手の中から聞こえてくる心配そうな声はどう聞いてもリオンの同僚であり父の秘書でもあるヴィルマのもので、どういうことだとリオンを見つめれば、痛ましそうに目を細めたリオンがウーヴェの額にキスをしながらそっとスマホを取り上げる。
「オーヴェが俺とあんたがランチに行ったのを見かけたらしいんだよ」
見かけたのに声を掛けないどころか美女と楽しそうにデートしていたと不機嫌になっているからあんたと話をすれば一発で分かってもらえると思ったと、肩を竦めたことで気分を切り替えたらしいリオンの言葉にウーヴェの目が限界まで見開かれ、その顔のまま同じ顔のリアを見ると、どういうことだとの疑問が顔中に浮かび上がる。
『そうだったの? ウーヴェ様、今日リオンと一緒にいたのはわたくしです。取引先の方を案内する店の下見を兼ねてリオンとランチに行きました』
「……これで分かったか? 今日俺がランチを一緒に食ってた美女はヴィルマ」
今日は会社の近くに新しくできたフレンチレストランに、映画祭の関係者として接待をする客を連れて行くための下見に行ったと静かな声で教えられ、ウーヴェの頭が自然と上下する。
「あ、ヴィルマ、この電話は兄貴には内緒だぜ」
『え、ええ、言わないわ』
とにかくウーヴェ様の誤解をちゃんと解いてねと今まで聞いたことがないような心配そうな声でウーヴェの不安を払拭するよう頼んで来るヴィルマに頷いたリオンは、そういう事だと肩を竦めつつ役目を果たしたスマホをテーブルに投げ出すと、腿の上で拳を握るウーヴェの手を取りそこに煌くリングにそっと口付ける。
「腕を組んでたって言ってたけどさ、俺の腕はお前のものだ。お前以外の自由にはさせねぇよ」
いくら美女だと言ってもお前に断りなく女と腕を組むことはもう二度とない。だから今日のランチの後からずっと覚えていたであろう嫉妬も誤解も何もかもを解消してくれ、そしていつものように笑ってくれと上目遣いにウーヴェを見つめたリオンは、表情を隠すように俯く白とも銀ともつかない髪を抱き寄せる為に眼鏡を強引に奪い取り、そのまま胸元に引き寄せる。
「……っ!」
「なー、リア、カフェの近くで見た奴、そんなに俺に似てた?」
「え!? え、ええ……。私もウーヴェも見間違えた程なのよ……」
いくら他人のそら似とはいえあれは似すぎていると、斜め後ろから見えた顔とくすんだ金髪を括っている事といい背格好もほぼ同じだったと口元を両手で隠しながら呆然と呟くリアにリオンが斜め上を見上げ、でも俺は今日はランチを会社の近くで食っていたからこちらには来なかったと呟き、背中に回された手に力が篭ったことに気づく。
「……二人が見間違えるほどかぁ。でもさ、この街で俺みたいな背格好やブロンドの男なんてゴロゴロしてるぜ?」
だからその中の一人と見間違えたのだろうとさっきとは打って変わった明るい声でリアに笑いかけウーヴェの背中をそっと撫でたリオンは、胸板にぶつけられる不満に気付いて抱きしめていた腕を緩めると、そんな他人のそら似ではない、本当にそっくりだったとウーヴェが俯き加減に呟いた為、今度はその頬を両手で挟んでリオンが視線をぶつけさせる。
「そんなに似てたか?」
「あ、あ……」
もしもお前に血の繋がった兄弟がいるのならとありもしない空想をしてしまいそうになる程似ていたと澄んだ蒼い瞳を見つめつつ冷静になった顔で呟くウーヴェに今度はリオンの目が丸くなるが、諦観したような笑みを浮かべてウーヴェの鼻先にそっとキスをする。
「俺に血の繋がった兄弟なんているわけねぇよ」
「そう、なんだがな……」
「もうこの話は終わりだ、オーヴェ。とにかく、今日俺はお前らが見かけた女とは違う女と一緒にランチを食っていた。だからそこにはいなかった。良いな?」
お前らが見かけたのは俺じゃない他の誰かだと少しの苛立ちを込めて断言するリオンに二人が頷かざるを得ない顔で頷くが、不意にリオンがニタリと不気味な笑みを浮かべた為、チェアの中で最大限にウーヴェが後退る。
「リ、リオン……?」
「俺のせいじゃないのにすげー不機嫌になってたよなぁ、二人とも」
「え、そ、それは……!」
「……」
リオンの言葉にウーヴェもリアもそれ以上は何も言えずに不気味な顔で笑いかけて来るリオンから逃れるようにリアはトレイを顔の前に立てかけ、ウーヴェは眼鏡を慌てて掛ける。
「今の季節だったらルバーブが入ったチーズケーキ、美味いよなぁ」
「……分かった、わ」
リアに対して謝罪しろとは言わないが代わりのものを用意しろと満面の笑みでーそれはまるで悪魔の笑みそのものだったー言い放ったリオンは、逃げを打っている伴侶の腕を掴んで軽々と引き寄せるが、さっきとは違って抵抗するようにチェアの肘置きをウーヴェが握りしめる。
「……帰ったら覚えてろよ、オーヴェ」
「い、いや……何を、覚えていれば、良いんだ……?」
さっぱり分からないなぁと下手なシラの切り方をするウーヴェにも悪魔の笑みを見せつけたリオンは、青ざめる頬にキスをし、分かっているだろうダーリンと囁きながら耳朶にキスをする。
「こらっ!」
「そんな顔で怒鳴っても怖くねぇよ」
それに本当に怒っているのはお前じゃなくて俺だとウーヴェに対して珍しく居丈高に言い放ったリオンは、目の前でぐうの音も出ない様子のウーヴェに内心ほくそ笑み、テーブルにあるビスケットへと顔を向けると食べても良いかと返事を聞く前に手を伸ばす。
「……どうぞ」
「ダンケ、リア!」
あ、チーズケーキを食べたからといってさっきの不機嫌さを許した訳じゃないからと二人を満面の笑みで地獄に突き落としたリオンは、最早何も言えなくなったウーヴェを抱きしめ、今日の夜が楽しみだ、どんなことをしてもらおうかなぁと、天国と地獄のどちらにも取ることのできる言葉を朗らかに言い放ち、ウーヴェとリアの口から重苦しい溜息を零させるのだった。