凪が店に入ると、いつか会った店長が個室まで案内をした。初めて来店した時とは違う個室だったが、中にいる人物の顔は同じで凪は気が緩むのを感じた。
「ちょっと遅れた」
「うん。俺、かなり飲んじゃった。お疲れ」
そう言って千紘は優雅にシャンパングラスを掲げた。かなり飲んだというわりに平然とした顔をしていた。そういえば、酒が強かったっけ、なんて思いながら凪も同じものをもらうことにした。
「1人でシャンパンとか贅沢だな」
「んー。ワインは凪が来てからにしようと思って」
「何飲んだ?」
「日本酒と芋とビール」
「飲んでんな」
凪は自然とははっと笑いをこぼし、運ばれてきたシャンパングラスを手に取った。店長がボトルから注いでくれ、浮遊する気泡を目で追った。
「1杯目からシャンパンとかオシャレだわ」
凪はそう言いながら、千紘とグラスを合わせた。
「でしょー。ボトルで入れちゃったから飲んでよね」
「ん。俺もちょっと飲みたい気分だったわ」
「なに、仕事で嫌なことでもあった?」
「……まあ、な」
凪が一口シャンパンを喉に流し込むと、喉の奥で炭酸が弾けた。自覚はなかったが喉が乾いていたのか、シュワシュワした感覚が心地よく感じた。
「またイケなくて悩んでんの?」
千紘が思いつく凪の悩みといったらそれぐらいだ。散々お前のせいだと言われ、仕事が上手くいかなくなったのは自分にも原因があると千紘自身も反省はしている。
「いや、それはもういい」
「いいって何。イけるようになったの?」
「あー……いや、そうじゃないんだけど」
凪にとってはそれはもう問題ではなかった。考えてみれば本番を断る理由はいくらでもあって、挿入だけして射精しなくても解決はする。
反応しなければ問題だが、今のところ勃起不全はない。それだけは救いで、挿入さえしてしまえばなんとかなった。
千紘にイケないのは問題だと騒いだあの時には、それが最大の悩みで今後セラピストを続けていく上でかなりの損失になると考えていた。
しかし、今となっては射精できないことよりも、客と一緒に過ごす時間が苦痛でしかないことが何よりの悩みだった。
「なんつーかさ、お前の元彼いたじゃん?」
「樹月?」
千紘は、冷めてしまったピザに手を伸ばした。凪から樹月の話が出てくるとは思わず、耳を傾ける。
凪も同じようにピザに手を伸ばすと、先にそれを取った千紘が皿ごと凪の方へと押した。
「あの執着した感じを見てからか、俺の客に同じような感じの女がいると生理的に無理んなってきてさ」
言いながら凪はピザを口に含んだ。すっかり冷めてしまっているが、腹が減っているからか鼻から抜ける香りに満たされた。
「ああ……。俺としては彼女でもないのにそんなのを何人も相手にしてた凪を尊敬するけどね」
「今まではそこまで嫌じゃなかった。まあ、仕事だからっていうのもあったけど、面倒臭いって思うことはあってもわりと簡単にあしらえたし、次に繋げようと思えばそこまで」
「ふーん。なんで、急に?」
「わかんね。最近はもう、次はなくてもいいかもって思ったり、途中で帰りたくなることもある」
「へー。あんなに仕事熱心だったのに」
「自分でもちょっと驚いてる。……暫く休みも入れようかと思って」
「ああ、それがいいよ。根詰めて働き過ぎたんじゃない? 目標あって頑張ってる内は何だかんだ頑張れちゃうもんじゃん? ある程度納得すると急に疲れが出たりするし。ゆっくり休んだら?」
ペロリとピザを平らげた千紘は、おしぼりで手を拭きながら言った。千紘の言葉に凪は目を瞬かせた。
今まで全く休みがなかった凪が仕事を詰め込めば、たまには休めばいいのにと言いながら誘ってきたものだ。それが、凪自ら休もうと思ってると言えば、その休みを自分に使えということなくゆっくり休めだなんて言う。
こんなことを他の客や彼女に言おうものなら、これを機に旅行にでも行かないかだとか、1日かけてデートしたいなどと言い出すだろう。
千紘も凪に好意がある以上、なにかしらの誘いはあるものだと思っていた。そして、勝手に断る理由も用意していたのだ。
それなのに千紘の返しに拍子抜けした凪は、ごくごくとシャンパンを飲み込んだ。
「いい飲みっぷりだね。他に飲みたい酒ある?」
「……お前、ワイン飲みたいんじゃなかった?」
「うん。凪飲む? 凪飲まないならグラスで頼む」
「……飲む」
「うん。じゃあ、頼もうよ。赤でいいでしょ?」
「うん。今飲んでんのシャンパンだし」
「だねー。あとね、牛タンのシチューあったじゃん? あれ頼んであるからもうちょっとしたらきっと来るよ」
そう言って千紘は嬉しそうに笑った。
「そういえばこの後仕事なの?」
千紘は呼び出しボタンを押しながら言った。
「いや、もう上がってきた」
「今日は予約入ってなかったんだ?」
「延長してもらう気でいたから次の予約は入れなかったんだよ」
「そういうこと。って、今から?」
「うん。4時まで」
「ふーん。それなら最初から4時まで入れたらいいのに」
「延長の方が金高いんだって。それに、コースを先に組んだら途中で帰れないけど、延長なら帰りたいタイミングで切り上げられる」
「ああ、なるほど。でもそんなに融通きくもんなの?」
「きく客はな」
凪がそう言ったタイミングで店員が顔を出した。千紘が当然のようにワインを注文する。
「タンシチューもすぐにお持ちしますので」
店員はなぜか凪に向かって言った。きっと来店したばかりで腹が減ってると思われているのだろうと思い、凪は軽く頭を下げた。
「明日はまた11時から?」
「そう。とりあえず今週の予定しかまだ入れてなかったから来週から週1か2で休む」
「そっか。ちゃんとした休みっていつぶり?」
「いつかな……。体調悪い時以外は休んでない気がするし、最低でも半年は休みなく働いてるかも」
「え、ホント!? そりゃ体壊すよ」
千紘は心底驚いたように目を見開いた。それから空になったグラスにシャンパンを注ぎ、また一口飲んだ。
「お前だって休みの日はカットの練習したりしてんだろ?」
「そうはいっても1日中やってるわけじゃないから、午前中いっぱい寝たり遊びに行ったりはするよ?」
「遊びにって?」
「普通に、友達と。スノボー行ったりバーベキューしたり、山登ったり」
「え、意外なんだけど」
あまり他人と交流を持ちたがらないのかと勝手に思っていた凪は、パチクリと瞬きをした。
「まあ俺も友達くらいいるしね」
凪の反応で言いたいことがわかったのか、千紘はおかしそうに笑う。たしかに凪に見せているのはいつも職場での環境だけ。友達と一緒にいる自分を想像するのは難しいのかもしれないと思った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!