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会場が、しんと静まり返る。 誰一人として、息を吐くことすら忘れたかのような沈黙。
羽鳥も、知らず知らずのうちに手に汗を握っていた。
照明がほんの少し明るくなり、斬島凶は二段重ねのタワーの最上部に、ぴたりと立った。
微動だにせず、背筋を伸ばし、ただそこに立つ。
危うい均衡の上に生まれた、完璧な静止。
バランス芸、成功。
「例え一段でも、体の軸、重心がずれれば真っ直ぐ立つことはできない。
あの不安定な構造で立てるのは、長年の職人経験で培われた精密な感覚があるからこそだ。
斬島凶の凄さは、そこにある」
東堂の解説が静寂の中で響く。
その言葉には、冷静な声色の中に、興奮と自信、さらには「自分が育て上げた」という誇りが感じられるようだった。
一瞬の静寂の後、観客席からどっと拍手と歓声が湧き上がる。
「おおっ!」
「すげぇ!」
興奮と驚きのざわめきが、波のように広がっていった。
だが——それは、ほんの序章にすぎなかった。
斬島凶は、胸元のポケットにゆっくりと手を入れると、銀色のナイフを一本、静かに取り出す。
迷いなく、それを空へ放った。
ヒュン、と空気を切る音が響く。
すぐさま、もう一本。そして、さらにもう一本。
鋼の光が、夜の闇に弧を描きながら舞い上がる。
(……嘘だろ……!?)
羽鳥は、目を見開いた。
玉と板の不安定極まりないタワーの上で、斬島凶は再びナイフをジャグリングし始めたのだ。
しかも、先ほどよりも高く、速く、鋭く。
まるで刃の雨が、舞台上に降り注いでいるようだった。
観客席は固唾を呑んで見守っている。
歓声も息遣いも消え、ただ、異様な静寂が場内を支配していた。
その中で——
「……おい、そろそろ俺の出番だろ!!キョウ!!」
舞台裏から鋭いツッコミが飛ぶ。
場内に、どっと笑いが広がった。
声の主は、大道芸人の男。
先ほどもツッコミを入れていた、あの男だ。
仮面の下、斬島凶はわずかに肩をすくめ、片手を軽く挙げて応える。
だが、手の中のナイフは一切止まらない。
仮面越しに、まるで言葉を投げかけるように――
「かけられた期待は、常に超えていく。それが斬島流です」
説明になっていないのに、妙に説得力がある。
すかさずツッコミが入る。
「カッコつけんな!!」
斬島は、飄々と返す。
「エンターテイナーは、常に自分を魅力的に見せる術を心得ているものですから」
ナイフは宙を舞い続ける。
言葉と動きが切り離されているのに、どちらもまるで“芸”の一部のようだった。
その一言は、静かで、冷ややかで、どこか誇りを帯びていた。
観客席には、笑いと拍手、そしてざわめき混じりの緊張感が走る。
羽鳥は、ごくりと喉を鳴らした。
(やっぱり……このサーカス、ただもんじゃない)
胸の奥で、何かがきしむような音を立て始めていた。
軽口混じりのやりとりが続くなか、
仮面の下の斬島は、わずかに首を傾けて、ため息をひとつ。
「……はぁ、仕方ありませんね」
あくまで静かに、あくまで淡々と。
それでも、舞台の空気は決して崩れない。
むしろ、より強く、深く、温まっていく。
羽鳥は、不思議な感覚にとらわれていた。
(……これも、“演出”なのか?)
完璧に組まれた脚本じゃない。
けれど、仲間同士の自然なツッコミや軽口すらも、
この場所では“ショー”の一部になる。
ここには、明確な枠がない。
観客と演者、舞台と日常――
その境界線が、曖昧に、溶け合っていく。
羽鳥の中で、少しずつ、
このサーカスへの認識が塗り替えられていった。
心の奥から、素直な感嘆がじわじわと湧き上がる。
斬島凶は、ナイフを次々とキャッチしながら、
バランス芸のタワーを一歩ずつ、丁寧に降りていく。
そして、舞台の中央に立ち、客席へ向かって深く一礼した。
その動作ひとつひとつまでが、舞台の一部だった。
「もう終わりなのか」と、名残惜しそうな声が客席から飛ぶ。
斬島はその言葉に応えるように、マイクを手に取った。
「……うちの大道芸人が、出番を譲れとうるさいので」
仮面越しの声に、皮肉めいた響きが乗る。
「少し早いですが、次の演目に移ります」
冗談のようで、本音のようで――
斬島は最後まで仮面を脱ぐことなく、その場を離れた。
観客席が、ふたたび温かな拍手に包まれる。
名残惜しさと、心地よい緊張の余韻が、静かに場内に満ちていた。
羽鳥も拍手を送りながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。
(凄い。演者も、観客も……
みんなでこの空間を“生きて”るんだ)
それは、今までに見たどんなライブやステージとも違う感覚だった。
ただ“見る”だけじゃない。
このサーカスは――“巻き込まれる”場所だ。