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「待って、くださ……、なんでこんな急に」
背中を締め付けていた感覚が消えて、そこだけ身軽になったようで心許ない。
それもそのはずだ。誰かといる時に、ましてや男の人と一緒の時に、この身軽さを感じることなどあるはずがないのだから。
(や、嘘、ブ、ブラのホック……)
寄せて上げて、の機能を果たさなくなったブラジャーを小慣れた様子で八木がワイヤー部分に指を引っ掛け浮かせた。
すぅっと、隠されていた肌に乾燥した空気が触れる。八木からはどれくらい見えてしまっているのだろう。
想像もつかない。
「へぇ、いい眺めだな。もう誰か見た? 俺以外の男」
「な、何……」
情けないほどに小さな声しか出ない。けれど八木はしっかりと真衣香の声を拾って、じっくり言葉を溜め込むように黙り込んだ後、やけに落ち着いた声を出す。
「例えば……坪井とか。ぶっちゃけどこまでヤられた?」
言いながら徐々に顔が近付いてくる。八木だとわかっている、わかっているのに……彼の名前を、この耳が聞き取ってしまったせいだろうか。
残像のように、あの夜、真衣香を切なげに見つめていた坪井の顔が重なって見える。
真衣香に快楽という熱を教えた、あの夜だ。
真衣香に絶望を教えた、あの冷たい夜だ。
「や、嫌だ、八木さん」
胸元にあった唇は離れたと思った途端に、次は真衣香の唇と触れ合い、重なり合った。
(キス、違う……)
その途端、心の中で何かが弾けて、真衣香の瞳から涙が溢れ出す。
知らなかった。唇の感触って、同じ人間でもこんなにも違うのか。
真衣香が知っているキスの感触は、固く強ばったような感触から始まる。
それが、触れ合うたびに熱と柔らかさを増して、溶け合うように交わってゆくのだ。
それは、坪井が真衣香に教えたキス。
(あのキスが、欲しい、私……今も、ずっと)
涙と一緒に溢れたのは、誰にキスをされたいのかという誤魔化しきれない本当の気持ちだ。
見下ろす八木の表情は、笑顔でも、睨みつけるでもなく、無表情で。まるで、涙と一緒に溢れ出した本心見透かされているみたいだ。
「女は言うよなぁ、好きでもない男とするキスは、セックスより難易度高いんだってな」
「……あ」
何となく、投げやりな雰囲気の声。
見れば、八木の眉が歪んだ。
――何を、言わせてるの?
真衣香は自分自身を殴りつけたい、そんな衝動に駆られた。
この優しい人に、自分は何を言わせているんだ?
ドクドクと怒りが血に乗って全身を駆け巡っているかのように、急速に広がってゆく。
(……私怖いからって、また傷つきたくないからって目を逸らして、でもそう、八木さんの言うとおり全部言うとおり)
ウジウジといつまでも動き出せなかった。どこにも走り出せなかった。
目指すものが決まっているというのに、真衣香の足だけが動かない。
そんな真衣香の毎日を、全てを見透かされていたというのなら。
真衣香を組み敷く、この優しい人は何をしようとするだろうか?
何をしてくれようと、するだろうか?
(坪井くんのこと酷い人って思ってたのに……私だって、人を傷つけてる、たくさん傷つけてるじゃない)
自分への怒りで唇が震える。カタカタと歯が当たって、うまく声が出せない。
「……め、なさい……」
「ん?」
力む真衣香の唇に気が付いたのだろう。八木の優しい指がそっと触れた。
途端に力が抜けて、嗚咽混じりの大きな声が溢れ出る。
「ごめんなさい、八木さん、ごめんなさい……!」
「質問するけど、何が、ごめんなんだ?」
「……う、うぅ、ひっ……く、うう……」
泣くばかりで会話にならない。そんな真衣香に呆れるでもなく、穏やかに囁く。
「泣いてるだけじゃ、さすがにわかんねぇって。ゆっくりでいいから教えてくれ」
涙で滲む視界に、ぼやけて見える八木の表情。泣きそうな顔に見えた。泣いているのは、真衣香だというのに。
眉尻を下げて、悲しそうに、笑っている。
真衣香の弱さと、狡さが、彼のこの表情を生んだ。
――逃げちゃダメ、八木さんにこれ以上嘘なんかつけない、絶対。
そう、心の中で強く叫んで唇を噛み締めた後。
今の、真衣香に出せる精一杯、大きな声で。八木に届くよう、偽りのない心のうちを曝け出す。
「つ、坪井くんのことが好きだから……!」
「……うん」
「わ、私……まだずっと、好きで……っ、好きなままだから」
「うん」
「八木さんの気持ちに応え、られません……ごめんなさい、ご、ごめ……なさ……」
泣きじゃくる真衣香の頭を撫でながら「やっと言ったか」と、呟いて。八木は助手席のシートをゆっくり上げてゆく。
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