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モラちゃんは私のことを「おい」とか「おまえ」と呼ぶ。私には高千穂弥生という、ちゃんと可愛らしい名前があるのに。そう呼ぶ。
告白された頃は違った。
付き合い始めたばかりの頃は「弥生ちゃん」って、甘い声で囁いてくれた。「やよりん、今日も可愛いな」なんて、耳元でくすぐるように言ってきて、私は照れながらも嬉しくて、頰が熱くなったのを覚えてる。デート帰りに手を繋いで歩くだけで、世界がピンク色に染まるみたいだった。あの頃の彼は、優しくて、ちょっと不器用で、でも私を大事にしてくれる人だって信じてた。でも、同棲を始めて半年後あたりから、だんだん怪しくなった。
最初は小さな変化。
「おい、飯まだかよ」って、キッチンに立ってる私に投げかけてくるようになった。「弥生ちゃん」って呼んでくれる回数が減って、「おまえ」って言葉が自然に出るようになった。
私が「名前で呼んでよ」って冗談めかして言ったら、「めんどくせえな、そんなことで」って、ため息混じりに返されて。その一言で、胸の奥がちくりと痛んだのを、今でも鮮明に覚えてる。
今じゃ完全に「おい」「おまえ」だ。店に来たときも、家でくつろいでるときも。
「おい、コーヒー持ってこい」
「おまえ、今日のシフト何時までだよ」
名前を呼ぶ気配すらない。まるで、私が「高千穂弥生」じゃなくて、ただの「便利な同棲相手」か「所有物」みたいに扱ってる。
メイドカフェから帰る時は、いつも気をつけている。ご主人様(お客様)とバッタリ出会した時、夢を壊さないように、ゴシックロリータのワンピースを着ている。黒いレースのフリルがたっぷりついた、膝丈のワンピース。首元に白いリボン、袖口にも小さなフリルが揺れて、頭には小さなボンネットをかぶって、街中を歩く私を、遠目に見たら「可愛い子がいるな」って思ってもらえるはず。
少なくとも、ウニクロの服で歩くよりは、夢を壊さない。お客様の「癒し」の記憶を、汚さないように。でも、そんな配慮も、モラちゃんには通用しない。
街灯の下でバッタリ会った瞬間、彼は汚物を見るような目で私を一瞥した。視線が、まるで道端のゴミでも見つけたみたいに冷たくて、一瞬で体温が下がる。
「そんな服で歩くなよ、俺の趣味が疑われるだろ」
低い声で吐き捨てるように言う。私は思わず、ワンピースの裾をぎゅっと握った。この服、別に彼の趣味じゃない。私が自分で選んで、大事に着てるだけなのに。でも、反論なんてできない。反論したら、きっとあとで家で「余計な口きくな」って、静かに詰め寄られるから。
「……だって……お客様がガッカリしちゃ可哀想だし……」
小さな声で、言い訳みたいに呟く。本当は「お客様の夢を壊したくない」って気持ちが強いんだけど、そんなこと言ったら「俺より客優先かよ」って、火に油を注ぐだけだってわかってる。
「おまえ、離れて歩け」
彼はそう言って、さっさと前を歩き出す。私は数歩後ろを、黙ってついていく。街のネオンが、ワンピースの黒いレースに反射してキラキラ光るのに、心の中はどんよりと曇ってる。
これでは毎日、何をしにメイド喫茶に通って来るのかわからない。私を監視しに来てるのか。私を所有物みたいに扱うために来てるのか。それとも、ただの習慣で、惰性で来てるだけなのか。どっちにしても、私の「癒しの場」を、彼は自分の支配の延長線上に置いてる。お客様が笑顔で「ただいま、弥生ちゃん♡」って言ってくれるあの時間が、彼にとっては「俺の女が他の男に媚び売ってる時間」にしか見えてないんだろう。
家までの道のり、ずっと黙って歩く。私の足音が、少し遅れて彼の後ろで響く。ゴシックロリータのスカートが、夜風にふわっと揺れるたび、「こんな服で歩くなよ」って言葉が頭の中でリピートされる。
「あ、アイス食べたい。コンビニ寄って行って良い?」
私がコンビニエンスストアの自動ドアの前で立ち止まっても、モラちゃんは無言でスタスタ先へと歩いて行く。ドアがスーッと開いて、中から明るい照明と「いらっしゃいませー!」の元気な声が漏れてくる。甘い匂いと冷たい空気が一瞬だけ頰を撫でて、私は思わず足を止めたのに、彼は振り返りもしない。いつもこうだ。私の「ちょっと待って」は、風に吹かれた紙くずみたいに軽く流されてしまう。自由なんて、最初から持ってなかったのかもしれない。
私はため息を飲み込んで、踵を返して彼の背中を追う。黒いコートの裾が夜風に揺れて、少し早足で進む後ろ姿が、遠く感じる。電柱を三本、四本と過ぎたところで、ようやくモラちゃんが足を止めた。そこには、さっきのチェーンとは違う、もう1つのコンビニ。看板の色が少し違うだけで、売ってるものは大して変わらないはずなのに。
「おまえの好きなアイスはここにしかないんだよ、世話かけんな」
彼はそう言って、ポケットに手を突っ込んだまま、私をちらっと見る。声は低くてぶっきらぼうだけど、言葉の端に、ほんの少しだけ温かみが混じってる。私は思わず息を飲んだ。
「幹雄くん……」
名前を呼ぶと、胸の奥がきゅっと締め付けられる。「おまえ」じゃなくて、「弥生」って呼んでくれた頃の記憶が、急に蘇ってきて。あの頃は、こんな夜道を歩きながら「アイス買ってあげるよ」って笑ってくれたのに。今は「世話かけんな」って言葉で包んでくる優しさ。
でも、それが余計にずるい。
「一分で買ってこい」
彼は腕時計を一瞥して、壁に寄りかかる。私は慌てて店内へ駆け込み、冷凍ケースの前で息を整える。好きなチョコレートバーの場所は、もう体が覚えてる。ガラス越しに自分の顔が映って、頰が少し赤くなってるのに気づいて、情けなくて、でも嬉しくて、複雑な気持ちになる。
レジでお金を払って袋を提げて外に出ると、彼はまだ同じ場所に立っていた。スマホをいじってるふりをして、私を待ってたんだろう。無言で隣に並ぶと、彼は自然に歩き出す。私は少し遅れてついていく。袋の中のアイスが、冷たくて、でも心が少しだけ温かくなる。
時々見せるこの優しさが、ずるい。一瞬だけ昔の彼に戻ったみたいで、「もう少し我慢すれば、きっとまた優しくなってくれるかも」って思わせてくる。でも、わかってる。この優しさは、毒入りキャンディーみたいに甘いだけで、食べ終わったらまた「おい」「おまえ」が戻ってくる。それでも、捨てられない。まだ、捨てきれない自分がいる。
家までの道のり、アイスの袋をぎゅっと握りしめて歩く。冷たさが指先に染みて、涙が出そうになるのを堪える。