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「まずい!おまえ肉じゃがひとつ、まともに作れないのかよ!」
モラちゃんはホクホクのジャガイモに箸を入れ、声を荒げた。テーブルに置かれた鍋から立ち上る湯気が、部屋の空気を少し甘くしているのに、彼の顔は不機嫌そのもの。私はビールを注いでいた手を止めて、慌てて自分の箸で一口味見してみる。
ジャガイモはしっかり火が通ってホクホク、牛肉は柔らかく、甘みと醤油、出汁が程よく絡み合って、家庭の味って感じの、優しい仕上がりだと思う。問題なんてないはずなのに……。
「嫁に行くなら肉じゃがだろう!」
彼の言葉が、突然の爆弾みたいに落ちてきた。箸を持った手が止まる。嫁?嫁に行くなら?
「よ……よめ?」
私はなんのことか分からず、グラスに注いでいたビールがテーブルにじわっと広がる。泡がシュワシュワと音を立てて、こぼれたビールが木目のテーブルに染み込んでいく。慌ててティッシュで拭きながら、頭の中がぐるぐる回る。まさか、モラちゃんは私と結婚する気なのだろうか。「おまえ」って呼んで、毎日監視みたいに店に来て、「離れて歩け」って言うくせに。「そんな服で歩くなよ」って汚物を見る目で睨むくせに。それなのに、肉じゃがひとつで「嫁に行くなら」って……。
彼は不機嫌そうにビールをぐびっと飲んで、「当たり前だろ。男は嫁に肉じゃがくらい作らせたいもんだ」って、ぶつぶつ言う。声は低くて、いつものように苛立ってるけど、どこか照れくさそうで。
いや、違う。
これはただの文句だ。優しさの皮をかぶった、いつもの支配の延長線上にある言葉。「俺の基準で完璧じゃなきゃダメ」って意味でしかないのに、一瞬、心が揺れてしまう自分が嫌になる。
私はこぼれたビールを拭き終えて、静かに座り直す。鍋の蓋をそっと閉めて、湯気を抑える。
「ごめんね……次はもっと味付け濃いめにする」
って、小さく呟く。本当は「結婚なんて、まだ考えてない」って言いたいのに、言えない。言ったら、きっと「じゃあ別れるか」って、さらっと言われてしまいそうで怖い。でも、この「嫁」って言葉が、胸の奥に小さな棘みたいに刺さって、抜けない。
優しさの残骸みたいなものが、まだ残ってる証拠みたいで、ずるい。本当にずるい。
彼はもう一口肉じゃがを口に運んで、「まぁ、食えなくはないけどな」って、ため息混じりに言う。それが彼なりの「許し」なんだろう。私は黙って、自分の分を箸でつつく。ホクホクのジャガイモが、口の中で崩れる。甘くて、ちょっとしょっぱくて、でも、心の中は全然甘くない。
結婚か。
もし本当にそんな話になったら、私はどうするんだろう。カフェの資金が貯まるまで耐えるって決めてたのに、この一言で、計画が少し揺らぐ。「嫁」って言葉が、鎖みたいに重たくて、でもどこかで、昔の甘い記憶を呼び起こして、離れられない自分が、情けなくて悔しい。
あと少し。
この肉じゃがみたいに、ホクホクの日常を、もう少しだけ演じていればいい。そしたら、いつか自分のカフェで、誰にも文句言われずに、好きな味の肉じゃがを作れる日が来る。「弥生」って名前で、ちゃんと呼ばれて。
モラちゃんが寝静まった頃、私はリビングのチェストの前に座り込んだ。窓から冴えざえとした満月の明かりが差し込んで、床に青白い光の帯を描いている。部屋の中は静かで、時々彼の寝息が奥の寝室から微かに聞こえてくるだけ。その音が、逆に私の心臓をドクドクと鳴らす。いつ目を覚ますかわからない。いつ「おい、何やってんだ」って、低い声で呼び止められるかわからない。
取っ手に指を掛けて、音を立てないようにゆっくりと引き出しを引き出す。カチッ、という小さな音がしただけで、背筋が凍る。雑然と入れた書類や古い写真の束の下に、薄汚れた預金通帳を隠してある。
指先が少し震えながら、それを取り出す。表紙は角が擦れて白っぽくなっていて、昔の自分の字で「弥生貯金」って書いてある。高校生の頃から、バイト代をコツコツと入れてきた通帳。
ページをペラペラと捲る。
数字が並ぶ欄に、赤いボールペンで線を引いたり、丸をつけたりした跡が残ってる。今は300万円を少し超えて、もう少しで400万円に届きそう。毎月のシフトを増やして、メイド服のチップを全部貯めて、家計のやりくりで浮いた分を少しずつ回して……。ここまで来るのに、どれだけ我慢したことか。
「もうちょっとだ。頑張ろう」
声に出して呟いてみる。自分の声が、月明かりの中で妙に小さく響く。でも、この言葉を口にすると、少しだけ力が湧いてくる。
喫茶店を経営していた商店街のお爺さんが、腰を痛めて引退するって聞いたのは、つい先週のこと。昔から通ってた小さな店で、木のカウンターが年季入ってて、コーヒーの香りがいつも染みついてるような場所。間口は狭くて、席数も十にも満たない。築年数は古いけど、居抜きで譲ってくれると言う。
譲渡額は450万円。
破格の値段だ。
お爺さんは「弥生ちゃんみたいな子に継いでほしい」って、笑いながら言ってくれた。あの笑顔を思い出すと、胸が熱くなる。誰かに「継いでほしい」って言われるのなんて、初めてだった。
モラちゃんには、こんな夢のことなんて一言も話してない。話したら、きっと「そんな金、どこにあるんだよ」って、通帳を探し出されて、全部没収されるか、「俺の金でやるならいいけどな」って、支配の道具にされるだけだ。
通帳を胸に押し当てて、深呼吸する。
あと70万円。あと半年、いや、もっと頑張れば四ヶ月でいけるかもしれない。シフトを増やして、休みの日もダブルワークして、この家で息を潜めて耐えて……。満月の光が、通帳の数字を照らして、まるで「もう少しだよ」って囁いてるみたい。
でも、ふと怖くなる。このままあと少しで手が届くのに、モラちゃんが何かきっかけを作って、全部壊してくるんじゃないかって。
「結婚する気あるのかよ」って、先日の肉じゃがの一件で急に言い出したり、「店辞めろ」って本気で迫ってきたりしたら……。通帳を握る手が、汗で湿る。
それでも、私は引き出しにそっと通帳を戻す。書類と写真の束で隠して、静かに閉める。立ち上がって、窓辺に寄る。月が、静かに私を見下ろしてる。
「お爺さんの店で、最初の一杯はコーヒーじゃなくて、紅茶を淹れようかな」
なんて、馬鹿みたいなことを考えて、少し笑ってしまう。涙が出そうになるのを、ぐっと堪えて。もうちょっと。
るるくらげ
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#再会