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番外編 【新田は書店で気づかれないように立ち止まる】第五話
「その本、気になりますか?」
不意に声をかけられ、新田は少しだけ肩を揺らした。
見ると、店員だった。
二十代前半くらいの女性で、胸元に書店の名札をつけている。おそらくさっきのポップを書いたのも彼女だろう。
「いえ」
新田は平静を装った。
「ちょっと目に留まっただけで」
「いいですよ、それ」
「……読まれたんですか」
「はい。入荷したときに気になって」
店員は平台の本を見て、少し笑った。
「猫の話だと思って読むと、けっこう刺さるんですよね」
「そうですか」
「なんか、大人がちゃんと情けないのがよかったです」
「……」
「でも、情けないだけじゃなくて。生活してる感じがして。私は好きでした」
新田は一瞬、何も返せなかった。
営業資料にも、会議にも、販促会議にも出てこない言葉だった。
大人がちゃんと情けない。
それでいいのだと、誰かが自然に受け取ってくれている。
それは編集者にとって、数字とは別の場所で効く。
「ポップも、あなたが?」
「はい。あ、勝手に出してるだけなんですけど」
「いえ……ありがとうございます」
店員は少し驚いた顔をした。
まさか礼を言われるとは思っていなかったのだろう。
「お好きなんですか、この作家さん」
「まあ」
新田はほんのわずかに間を置いて、
「仕事柄、少し」
とだけ言った。
それ以上は言わなかった。
自分が担当編集です、と名乗るのは簡単だ。
だがその瞬間、今ここにある読書の純度が少しだけ変わる気がした。店員の感想は、肩書きに向けられたものではなく、本そのものに向けられたものだ。そのままで受け取りたかった。
「次も出たら読みたいです」
店員は言った。
「この人、まだもっと面白くなりそう」
新田は思わず、少しだけ笑った。
「そうですね」
「え?」
「たぶん、編集者もそう思ってます」
「そうなんだ」
店員は不思議そうに笑い、それから「失礼しました」とレジのほうへ戻っていった。
新田はその背中を見送りながら、胸の奥に小さな熱が残るのを感じていた。
まだもっと面白くなりそう。
その言葉は、今のあの作家にいちばん必要な種類の期待かもしれなかった。
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