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ゆ(旧「ゆゆゆゆ」)
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ゆ(旧「ゆゆゆゆ」)
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夜の執務室は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。
背の高い窓の向こうには、冷徹な美しさを湛えた街の夜景が広がっている。
しかし、室内を支配しているのは、ただ一つ。古びた柱時計が刻む、重苦しい秒針の音だけだった。
「カチ……、カチ……」
マフィオソは、重厚なマホガニーのデスクに肘を突き、広げられた書類に目を落としていた。
組織の命運を握る幾つもの数字や名前。
いつもなら一目で本質を見抜くその冷徹な瞳が、今はどうしたことか、文字の表面を滑るだけで一向に頭に入ってこない。
「……」
集中が、完全に切れていた。
それどころか、奇妙な感覚がじわじわと四肢の末端から這い上がってくる。
妙に、身体が熱い。
内側からじりじりと燻るような熱源が、心臓の奥深くで脈打っている。
気分を落ち着かせようと、指先に挟んだ煙草を深く吸い込んだ。紫煙が肺を満たし、そしてゆっくりと薄暗い室内に吐き出される。
だが、おかしい。
いつも愛用しているはずの苦味の強い銘柄が、信じられないほど甘ったるい芳香を放って喉の奥にへばりつくのだ。
頭が、ぼうっとする。思考の輪郭が、熱に浮かされて溶けていく。
「……なんだ、これは」
低く、掠れた呟きが自身の唇から零れ落ちる。
それだけではない。
自らが纏っているはずの香水さえも、まるで狂ったようにその主張を強めていた。
普段なら微かに漂う程度の、硬質で洗練されたウッディな香りが、今は驚くほど濃厚で、淫らなほどの甘さを帯びて部屋の空気を満たしている。
その熱を帯びた芳香が、彼の神経を逆撫でした。
「……チッ」
不快感と、正体の分からない焦燥感に突き動かされ、マフィオソは首元に手をかけた。
きつく結ばれたネクタイを乱暴に緩める。
それでも足りず、最高級のシルクで仕立てられたシャツのボタンを、上から二つ、引きちぎるようにして外した。
空気に晒された鎖骨のあたりが、自らの熱でうっすらと赤みを帯びている。
その瞬間だった。
コンコン、と。
静寂を破る、軽快で、それでいてどこか遠慮のないノックの音が響いた。
「入るぞー」
返事も待たずに扉が開く。聞き慣れた、いささか緊張感に欠ける声。
「……お前か」
チャンスが部屋へと足を踏み入れてくる。いつもと変わらない、飄々とした佇まい。
しかし、彼はデスクの前で、ピタリと足を止めた。
「…………」
トレードマークであるサングラスの奥で、チャンスの目が、かつてないほど大きく見開かれる。
「……お前」
数秒の、濃密な沈黙。
「何それ」
「何がだ」
マフィオソは不機嫌さを隠そうともせず、低音で応じる。
「いや、何がだじゃなくて」
チャンスの口元が、驚きから徐々に、堪えきれない笑みへと歪んでいく。
「待って。ちょっと待って」
「……何を楽しんでいる」
「なんでそんな……」
チャンスは言葉を探すように視線を彷徨わせながらも、その目はしっかりと、デスクの奥の男に釘付けになっていた。
いつもなら隙一つない完璧なボスが、今はどうだ。
緩められたネクタイは歪み、はだけた襟元からは、熱に浮かされた肌が覗いている。
微かに荒い呼吸のせいで、薄い胸板が上下に揺れていた。そして何より、いつもは氷のように冷徹なその顔が、微かな微熱の赤に染まっている。
普段の峻厳な美しさが、熱によって艶っぽく、柔らかく崩れ去っているのだ。
しかも、本人はその事実に全く無自覚ときている。
チャンスにとって、それはある意味で最悪の、そして最高に扇情的な光景だった。
「……お前さ」
チャンスが片手で額を押さえ、深く息を吐き出す。
「破壊力やばいぞ。自覚あんの?」
「意味が分からん。用がないなら出て行け」
マフィオソは忌々しげに眉を寄せる。
だが、その拒絶の仕草さえも、今日の彼がやると、まるで誘っているかのような色気を孕んで見えた。
チャンスは数秒間、声もなく彼を見つめていたが——。
突如として、デスクの横をすり抜け、一気に距離を詰めた。
「……っ、おい」
気配を察したマフィオソが身を硬くするよりも早く、チャンスの手が彼の肩へと置かれる。
「顔、真っ赤」
「……ただの、室温のせいだ」
「熱あるんじゃねぇの? これ」
「平気だと言っている」
「いや、全然平気そうに見えないんだけど」
チャンスはわざと、マフィオソの顔のすぐ近くまで自らの顔を寄せた。
間近で嗅ぐその香りは、さらに暴力的だった。
彼の体温と、仕込まれた何かが完全に“混ざり合い”、甘く、痺れるような芳香となって室内に充満している。
「……あー」
チャンスの喉から、愉悦に満ちた小さな笑いが漏れた。
「効いてる。思った以上に、めちゃくちゃ効いてるわ」
「何が、だと聞いている……!」
「いや?」
チャンスは視線を逸らして誤魔化すが、その口元は完全に悪だくみを成功させた男のそれだった。
「少し休んだ方がいいよ、ボス。今日のあんた、まともに命令も下せそうにないし」
「必要ない。お前の指図を受ける覚えは——」
「必要、あるの」
拒絶の言葉を遮るように、肩にかけられた手に力がこもる。
抗おうとしたマフィオソだったが、身体の芯が痺れたように重く、呆気なく後ろのソファへと押し込まれる形になった。
「おい……!」
「大人しくしろって。な?」
ソファに背を預けたマフィオソを覆い隠すように、チャンスがその傍らに片手をつく。
逃げ道は完全に塞がれた。
距離が、近い。
互いの吐息が触れ合うほどに、近すぎる。
「……チャンス」
睨みつける瞳には、いつもの鋭さはなく、どこか潤んだ熱が混ざっている。
声も低く威嚇しているつもりだろうが、今日のそれには男を狂わせるような甘い響きが混ざっていた。
迫力が完全に鈍っている。
「なんだよ、ボス?」
「後で……確実に、殺す」
「あはは、後でいいなら喜んで。今は?」
「違う……っ」
チャンスは低く笑った。それから、じっくりと時間をかけるようにして、マフィオソの白く細い首元へと顔を寄せていく。
その極上の香水の匂いを、肌の温もりごと確かめるように。
「……んっ」
首筋に触れるチャンスの熱い息に、マフィオソの肩がピクリと大きく跳ね上がった。
爪がソファの革を強く引き絞る。
「ほら」
チャンスの囁きが、鼓膜を直接揺らす。
「体が正直。めちゃくちゃ反応してんじゃん」
「……していない。離れろ」
「してるって。耳まで赤くなってるよ?」
耳元に落ちる低く掠れた声と、衣服越しに伝わるチャンスの強固な体温。マフィオソの眉が、苦しげに深く寄せられる。
「……お前、近すぎる……」
「今日は許して。こんなあんた、二度と見られないかもしれないし」
「許して、ない……」
「でも、逃げないんだ?」
「……っ」
図星だった。
身体が熱くて力が入らないのも事実だが、心のどこかで、この男に組み敷かれていることに、奇妙な安堵を覚えている自分に気づいていた。
チャンスはもう、完全にこの状況を楽しんでいた。
「なぁ、ボス」
「……なんだ」
「今ならさ……キスしても、怒る元気なさそうだけど」
「撃つぞ……本当に」
「へえ、じゃあ試してみる? そもそも、今その手に銃を取る元気、残ってんの?」
「……」
ない。
引き金を引くどころか、目の前の男の胸を押し返す力さえ、今の彼には残されていなかった。
マフィオソが一瞬、悔しげに黙り込む。
その素直な反応に、チャンスはついに吹き出した。
「ははっ!」
「……笑うな」
「いや、素直すぎて可愛いわ」
「黙れ……ッ」
「無理」
チャンスはさらに距離を縮めた。
鼻先が触れ合い、互いの睫毛が交差するほどの至近距離。
「ほんと、今日のお前やばいから」
チャンスの声から、先ほどまでのからかいの色が消え、急激に熱を帯びた本気の響きへと変わる。
「俺じゃなかったら、今頃ベッドに引きずり回されて身ぐるみ剥がされてるよ」
「……原因がお前なら、何の意味もないだろうが……」
「確かに」
チャンスは低く、至福に満ちた声で笑った。
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